ロスト・イン・トランスレーション 2


前回16日に、立派な翻訳というのは、ヘーゲルを美しい日本語を駆使する立派な大学教授にしてしまうものだという喩えを使った。とくに他意はないとして。


他意はないものの−−そろそろ時効なので語ってもいいと思うのだが−−私はかつて大学入試の小論文の採点をさせられたことがあるが、その時の思い出がヘーゲルの名を書かせていた。その入試問題には設問がふたつあって、ある文章の一節が出され、それについて論ずるというものだった。もっともただ論評するのではなく、質問が加えられていたのだが、解答は、かなりの字数を使って、小論文を書くことを要求していた。


問題のひとつは、日本人が書いた文章の一節で、作者は、当時、私がはじめて名前を聞く人物だったが、その後、けっこう有名になった人物でもある。その日本語の文章は、きわめて難解な文章で、日本語でここまで難解な文が書けるのかと、ほとほと感心した覚えがある。


もうひとつの問題はヘーゲルからの一節。もちろん翻訳から引用されている。それを見ながら私は、このヘーゲルの一節、語られていることはそんなに難しくないが、この訳文はなんとも面妖で、意味が把握しにくい悪文ではないかと思えてきた。


日本人が書いた文章のほうもある意味で悪文ともいえるのだが、内容も微妙かつ繊細な議論であるので、それほど気にならないが、ヘーゲルのほうは、それほどたいしたことを語っていないのに、表現がひどかったので、どうしても気になった。


そのヘーゲルの訳文は、「馬から落馬する」式の、典型的な無神経な訳文で、おまけに昔の哲学書にありがちな、通常の熟語をひっくり返して、新しい術語を作るようなことをしていて(たとえば証明から明証性をつくるような)、これを受験生に読ませるのは、あまりに酷ではないかと思われた。その問題は全学の受験生向けなのか、文科系の受験生向けなのか、さらには文学部の受験生向けなのか、いまとなっては定かではないが、文学部の受験生向けとしてもひどい問題であるし、ましてやこれが全学の受験生向けだとしたら犯罪行為に近い。


採点室での採点は疲れるものだった。どちらも難問だが、受験問題なので、受験生は途中でギヴ*1しない。だから白紙の答案はないし、答案の議論は七転八倒していて、読んで採点するほうも、かなり疲労がたまる。いうまでもなく小論文の採点は、一人で点をだすのではなく、複数の採点者が点数を出して、合議の上、最終評価点を決めるのだから、あまりいい加減な採点もできない、というより、自分の採点の根拠を明確にしておかなければならない。


そこでむしゃくしゃしてきた私は、「いやあ、このヘーゲルの翻訳の文章、ひどいですよね。ここなんか、馬から落馬式のひどい翻訳だし、言葉遣いだって古い。誰か知りませんが、昔の先生の古い翻訳をそのまま使ったのでしょうが、新しく訳しなおして出すべきだったと思います。これでは受験生が可愛そうだ」と、そう、ほんとうに口まででかかった。しかし、あとでわかったのだが、この問題の訳文は、私の隣に座っていた入試出題委員(採点委員もかねていた)が、自分で翻訳したものだった。口に出して言わなくてよかったと、当時は冷や汗をかいた。だが、今にして思えば、言ってやればよかった。


採点は2日にわたって行なわれたが、初日、帰宅した私は、すぐさま岩波文庫ヘーゲルの『歴史哲学』2巻本を取り出して、試験問題に出された箇所を探した。内容からしてどのあたりの文章かは察しがついたので、見つけるのに時間はかからなかった(ヘーゲルの専門家だったらもっと早く見つけていただろう)。長谷川宏訳のヘーゲルは評価の高い翻訳だが、私はこれまで、下手ではないがものすごく優れた翻訳だとは思っていなかった。その時、入試問題として翻訳された悪訳と、長谷川宏訳とを比べたら、長谷川訳がいかにすばらしいかが、納得できた。意味もとおるし、特定の熟語を入れ替えて新語をつくるなんて馬鹿なことはしていないし、格調もあり、力強さもあった。とはいえ比べる相手が、ひどすぎるから、長谷川訳へのオマージュにはならないかもしれないが。

*1:ギヴアップと表記すべきではないかという質問もあったが、ギヴアップでもいいが、同時に、ギヴでもいい。日本の格闘技などではよく「ギブアップ」という代わりに簡単に「キブ」といったりするが、あれは日本語で英語ではないという批判はあたらない。英語でも簡単にgiveといってgive upの代用とすることがある。