抹茶と番茶


O様


無事に帰宅しました。京都のおみやげを買うのにつきあってもらい、ありがとうございます。


抹茶編


そのとき京都駅の伊勢丹の地下で、抹茶を買うのをみられてしまいましたが、抹茶は、今年の3月京都に行ったとき、京都の喫茶店(数多い京都のコーヒー専門店ではなくて、通常の喫茶店)には、たいてい抹茶と和菓子のセットがメニューにあって(実際には、抹茶をメニューに記載している喫茶店は東京にだって多いのですが)、それを注文したら、久しぶりに味わう抹茶に、昔の日々が蘇ってきました。いつの頃からか忘れたのですが、私は子供の頃から日常的に抹茶を飲んでいたからです。


子供の頃に抹茶を飲むとはとあきれるかもしれませんが、抹茶はそれだけを飲んだら子供には苦すぎますが、たいてい和菓子といっしょに出る。和菓子を食べてから、苦い抹茶を飲めば、苦さが緩和されるし、抹茶も味わえる。だからおやつの時間にお菓子と抹茶を飲んでいたわけです。


いつ頃から抹茶を飲まなくなったのか定かでないが、母親が生きているときは、時折、抹茶をたててくれたので、それを飲んでいた。母親が死んでからは今年になるまで一度も抹茶を飲まなかった。


そして今年になって抹茶を自分でたてて飲むようになった。3月に京都から帰ってきてから、抹茶茶碗と茶せんなど簡単な抹茶セットを購入したのですが、気づいてみると食器棚の奥には、前使っていた茶碗、それから消耗品の茶せんなども予備まで置いてあって驚きました。というか、これをすっかり忘れていた自分にあきれました。まあ20世紀の終わり頃まで日常的に抹茶を飲んでいたわけです。


抹茶というと、茶の湯とかいろいろうるさい作法があるのではないかと思うかもしれませんが、日常的に茶を飲む場合、作法は関係ありません。抹茶をたてて、あとは両手で茶碗を抱えこむようにしてもち、一気に、三度か四度にわけて飲む。あ、その前に和菓子を食べるのを忘れずに。


ちなみに抹茶に会う和菓子は、饅頭とかそういう大きな菓子でなくて、たとえば甘納豆のようなものを一粒か二粒でじゅうぶんです。子供の頃は抹茶より和菓子に興味があったのだけれど、いまでは和菓子よりも抹茶。それもあってか、和菓子は小さなものでよく、和菓子代は少なくてすむ。また甘納豆とか松露といった昔ながらの小さな和菓子が抹茶にじつによくあう。


ただ子供の頃から抹茶を飲んでいたというと、金持ちの家だったのかと思うかもしれませんが、まったく逆で、生まれ育ったのは貧乏な庶民の家。そんな家で抹茶をたてていたといのは分不相応な、変なことだったのですが、なぜそうなったのかというと、私の父親と母親が、金持ちの家の息子に娘だったので、父母の実家の習慣が残ったというわけです。父母は金持ちの家の子供だったのですが、ふたりが結婚する頃には、どちらの家もお金をなくしていました。だから私が生まれたときは、ふたりは金持ちどころか、ただの貧乏人にすぎませんでした。


貧乏人のくせに、家には三味線と琴があり(それも複数)、おやつの時間が抹茶と和菓子だっので、まあ、へんな家であったことはまちがいない。両親は、金持ちの家の子供として育ち暮らしたものの、あまりよい家庭環境ではなく、金はあっても冷たい家族だったらしく、そのため金はなくても暖かい家庭が理想で、お金がないことはまったく気にしなかった。ただ、それでも両親の実家の習慣をなんとなく維持していたのです*1


まあ妹とも、よく話すのですが、うちらの両親は、金持ちの子供なのに、なぜ私たち兄と妹は貧乏人の子供なのだ、と。お金がなくても楽しい我が家を築くことはできる。事実、両親はそうしてきた。またお金がすべてではないだろう。しかし、両親には悪いけれど、やはり金持ちの子供に生まれたかったぞ。お金が欲しかったぞ。


番茶編


デパートの地下で、ついでに京番茶というのを買いましたよね。かなり呆れ顔で見てましたね。実は、こちらも買うのに勇気が要ったのですが、あれから帰って、煮出してみました。番茶が入った大きな袋には、カフェインがなく、赤ちゃんにも安心して飲ませられると書いあって、げっ、これを赤ちゃんに飲ませるのかよと、ちょっと唖然としたものの、煮出したみたら、なんのことはない、ふつうの番茶。それもやさいい健康茶みたいな。そう、どこでもペットボトル売っている爽健美茶のような感じ。これなら赤ちゃんにも飲ませられる。


となると、あの番茶はなんだったのか。


遡ると、前日。Kさん宅で出された京都の番茶は、ちょっとえぐいものがありましたよね。茶葉を焼いたものだというその番茶は、焦げ臭い味がして、それも、ほうじ茶のようなこうばしいものではなく、なにか石油で燃やして、そのにおいが、まさにべとついたような、内側を焦がして酒樽に入れて熟成させて作ったバーボンの匂いとでもいうべきもののような、とにかくきなくさい匂いのするお茶でしたよね。


そうそう、たとえていうなら、O君が語ったような、「タバコ臭いお父さんといっしょにお風呂に入ったときの匂い」というのが、実際に、その匂いをかいだわけではないのだけれど、いちばん近い匂いのような気がします。


ですから、デパートで京番茶を買ったのは、「お風呂に入っているO君のタバコ臭いお父さんの匂い」を、おそるおそる再現して味わってみようと思ってのことでした。でも購入したのはやさしい味わいのただの番茶でした。


となると、あのKさん宅で飲んだ番茶、きなくさい匂いの番茶はいったいなんだったのかと思いますよね。京都の人は、こんなえぐいお茶を飲んでいるのか。まあ観光客というかよそ者には理解できないディープ京都の、それこそ「タバコ臭いお父さんといっしょにお風呂に入ったときの匂い」のような番茶を京都の人たちは日常的に飲んでいて、O君とのこんなやりとりをみたら、なんて馬鹿なことを書いている田舎者かとあきれられるかもしれませんね。あるいはKさんのお宅では、なにか勘違いして、あんなへんなお茶を飲んでいるのか。いずれにしても、もう少し調査してみる必要はありそうです。


それではよいお年を。

*1:というのは、おそらく美化した言い方で、両親はなんとなくどころか、そうした楽器とか抹茶を、裕福だった頃の生活ぶりを伝えるものとみなし、そうみなすことで貧しい現実を忘れようとしていたのではないかとも考えられるのです