King’s Men 2


この映画の劇場用パンフレットには、よくあるすりかえが二つある。ひとつは、誰でもが目に付くもの。もうひとつは、見過ごされてしまうもの。ともにクリシェイだが、映画の評価にもかかわるものなので、見過ごせないのだ。


主役のチャンセンに扮するカム・ウソンは、パンフレットのなかのインタヴューで、「映画には同性愛的なことは一切、出ていません」と断言し、「同性愛的要素」があるのではないかというインタヴュアーの疑問に対して、原作となった戯曲では同性愛が扱われているが、この映画には「そういう要素は全くないと断言できます」と、断言している。まあ主演俳優の言葉だから、そこに映画会社の宣伝意図をみるのはまちがっているかもしれないけれど、しかしインタヴューのタイトルには、大きな文字で「3人の関係は同性愛ではない。もっと精神的なつながりだ」とあって、結局、この俳優と同調していることになる。


あいかわらずのホモフォビアでやれやれと思う。「同性愛」とか「同性愛的要素」というのが作品の価値をおとしめるとでもいわんばかりであって、同性愛こそ、異性愛を超えた究極の愛の形であるという発想は微塵もなく、変態的で不潔な病的な倒錯性欲くらいしにしか認識していない。トッド・ヘインズ監督の映画『エデンの彼方へ』(2004)では、同性愛者であると発覚した男性は妻によってカウンセリングを受けさせられるが、それは同性愛がまだ病気扱いであった1950年代のアメリカでの話であって、現在、同性愛のカウンセリングはない。なぜなら病気ではないのだから(日本でも病気ではない*1)。しかし病気だと思っている人間は多く、実は、そうした人間が逆説的にみずからの強い同性愛的感情や欲望を隠し持っていることが多いのだ。


あるいは明確なカミングアウトしている同性愛者は数は少ない。そのためごく一部の特殊な欲望なり性向をもっている人間だけが喜ぶ、ローカルで特殊な映画ではなく、同性愛者ではない人間も感動する、一般向けの映画だという強調したいのかもしれない。


かつてマシュー・ボーン演出のバレー『白鳥の湖』の日本公演において、その宣伝的紹介として、これは同性愛を扱っているが、それだけではなく、それを超えた普遍的なものを扱っているという内容の文章が新聞に載った(朝日新聞社も公演の協賛社だったと思う)。結局これもホモフォビアである。同性愛というローカルでマイナーなものを超えた高次の、あるいは一般という地平が、ヘテロセクシズムという結局ローカルでマイナーなものかもしれないという意識はまったくないのである。


いやへテロセクシズムがローカルでマイナー? 数から言っても圧倒的多数だろう。数の問題で片付けるのはよくないかもしれないが、こればかりは量も質もマジョリティとしかいえないのではという反論があるかもしれない。馬鹿は出直して来い。キンゼイ報告で有名になったキンゼイスケールというのを知っているだろうか*2。キンゼイ報告はそれまで秘匿されていたプライヴェートな領域をアンケートによって白日の下に晒したという点で画期的なものだったが、同時に、キンゼイ報告は、同性愛報告であることは往々にして忘れられている。つまりキンゼイスケールというのは1から6まで目盛りがあって、1は100パーセント・へテロ、6は100パーセント・ホモとなっている。ふつうならホモ10パーセント、ヘテロ90パーセントで二分されて終わりだったのに*3、グラデーションをつけたせいで、2~5までの途中の段階に丸をつける人間が数多く出てきた。つまり異性のパートナーがいても、同性愛的な感情や欲望を自らに認める人間もかなりいたということになる。


となると比率のカウントの仕方も異なるだろう。肉体的な同性愛しか同性愛と認めないグループにとって、いくら同性愛的感情を持った人間でも異性のパートナーがいる限り、そのような人間はただのヘテロにすぎないだろう――90パーセントのヘテロ。しかし肉体関係はなくても同性に興味を示し、同性愛的感情を抱く人間は、ホモフォビックなヘテロ人間にとってはホモと同類である。あるいはバイセクシュアルの人間もいるかもしれない。となると純粋ヘテロにとって、ホモ、変態、倒錯者は何人いるのだろうか。90パーセント?まあそこまでいかなくても、50パーセントは超えるのではないか。たとえキンゼイ・スケールでグラデーションをつけること自体、誘導尋問だとしても。そしてこうなるとホモはもはやマイノリティでもローカルなものでもなくなるのである。


ここから言えるのは、マジョリティのヘテロ、マイノリティのホモに二分される社会と現実像に対して、いまひとつのパラレルワールド的現実への扉がひらかれるということである。つまり90パーセントのヘテロvs10パーセントのホモという関係は、90パーセントのホモ(あるいはバイセクシュアル)vs10パーセントの純粋へテロの対立へと反転する可能性が大きいのだ。ホモフォビアヘテロセクシズムの王国にあるホモセクシュアルの影の王国。あるいはヘテロセクシズムの王国のパラレルワールドとしてのホモセクシュアル・ワールド。このような現実の二重性・平行性を、ホモフォビアは一元的に還元管理しようとする。いまひとつの現実を、現実の二重性を必死に暴力的に抑圧するのである。


そもそも100パーセント・ホモと100パーセン・へテロというのは、それほど数は多くない。それぞれは、人間社会に存在するマイナーな二つの集団ということである。たとえていうならそれらは、極右と極左であって、それ以外のマジョリティは、左翼から右翼にいたる連続体のなかを、遊動しつづけている。これがマジョリティ集団なのだ。つまりマジョリティはバイセクシュアル的であり、ヘテロとかホモというマイノリティである極左・極右集団ではないことになる。


したがって社会をヘテロとホモに二分するのは、政治的な喩えでいえば、社会を極右と極左に分けて、その中間をいっさい認めないことになる。極右は少しでも自分たちに反対するものを極左とみなす。逆もまた真なり。こんな社会は全体主義社会、ファシズム社会であり、いまの日本がそれに近い。つまり極右化している日本では、すこしでも左翼がかると、それだけでもう極左になる。民主国家としての日本には野党やその支持者も一大勢力をなしているというのに、その現実を無視して、与党以外、政府の政策の支持者以外、すべて極左という決め付けは、政治的弾圧と抑圧社会へと行き着くだろう。


これはホモではない。あるいはこれはホモを超えた普遍的なものである。いずれにしても、このホモフォビアは、たとえ異性のパートナーを持っていても、同性愛に関心を示したり、みずからのなかに同性愛的欲望の共存を認識したりという、私たち自身のなかにある、あるいは社会全体にある、まさにバイセクシュアルの連続体の存在を無視し抑圧して、いまひとつの現実への扉を閉ざし、セクシュアリティヘテロとホモに二分する暴力行為である――たとえ暴力的とは認識されていなくても。極右と極左しかいない社会が地獄であると同じように、ヘテロとホモしかなかなく、両者の対立しか想定しえない文化は限りなく貧困な文化であり、人間性への侮辱であろう。韓国の文化であれ、日本の文化であれ、いかなる文化であれ、ホモフォビアとそろそろ縁を切ってはどうだろうか。極左と極右の支配に、そろそろ反対して立ち上がる時ではないだろうか。(つづく)
 

*1:ただし同性愛者あるいは自らに同性愛的欲望を認める者は、ヘテロセクシズムのプレッシャーゆえに精神的障害を起こしやすく、カウンセリングにかかる率は多いことは確かだが、現在、同性愛者であることをやめるよう求めるカウンセリングはなく、同性愛といかに共存するかをすすめるのがふつうである。

*2:ちなみに一昔前はキンジーとキンゼイの二つの日本語表記が共存している時期があったが、現在は「キンゼイ」で統一されている。しかし皮肉なことに英語の発音は「キンジー」である。嘘だと思うなら英和辞典で発音を調べ欲しい。

*3:同性愛者の比率は10パーセントと考えられた時期があった。またNo.6というロゴで自らの同性愛者性をアピールするグループがアメリカに存在した。