King’s Men 3


『王の男』のパンフレットには、東京大学大学院教授のYという人が舞台となった15世紀から16世紀の朝鮮王朝の歴史について、解説を書いている。それは素人にもわかりやすく丁寧に、またいくら一般向けとはいえ、学問的な厳密さを失うことなく(と、そう思われるのだが)解説していて、とても有益で、参考になる。


だからこの解説的文章について、なにか文句とか批判があるわけではない。またここで問題にしようとしているのは、その文章の筆者の意見というよりも、歴史家一般の意見/偏見のようなものなので、個人的な攻撃ではないので、名前を伏せている。


私が中学生時代、歴史の教師は、たいてい新学期の初めに、歴史と小説という話をして、小説は虚構・フィクションであり、いっぽう歴史というのは事実であり、それを学ぶというのは事実を研究することだと解説した。事実vs虚構、それが歴史vs文学というふうに移行する。


まあたしかに歴史小説あるいは時代小説というのは、時代考証もしっかりしていて、珍しい歴史的事実を掘り起こすものもあるかと思えば、実にいい加減なものもあり、それも戦いの勝ち負けといった歴史的事実すらも簡単に捻じ曲げてしまい、歴史小説の名が泣くと思われるものも数多くあった。いやいまもある。それを思うと、なっとく出来ないわけではない。いまもなお、そのような二項対立が学校教育の場で反復されているとしても、まあよしとしてもいい。


中学から高校になると、いまもなお私が影ながら尊敬している国語の教師がいて、F先生からは古文の授業しか習わなかったが、それでもその授業は私にとって刺激の塊であり、片言たりとも聞き逃すまいと耳をそばだていた。ある時、話が白戸三平の漫画に及んで『忍者武芸帖』とか『カムイ』などは、そこにあらわれる封建意識は歴史家も注目して読んでいるというような話をしていて、そういうこともあるのかと感動したことを憶えている。


もちろん歴史家たちは白戸三平の漫画を歴史的資料として読んでいるわけではなく、封建時代を理解するための枠組みというかインスピレーションの源としてそれを読んでいるのだろうが、そういう歴史研究者たちもいるということがわかり――ほんとうにそうかどうかは、わからないが――、歴史家は、歴史と文学の二分法でしか考えないわけではないと安心した覚えがある。


そもそも歴史と文学を、事実と虚構におきかえるのは、中学レヴェルではそれでいいとしても、高校レヴェル、大学レヴェルでは、そんなことではなにもできないだろう。歴史小説が嘘の塊だということはわかるが、歴史だって大嘘だろうということは、高校生くらいになればわかってくる。歴史と文学は、どちらも虚構と虚構なのだ。歴史という嘘のなかに埋もれている真実をどうやってみぬくのか。虚構・文学にある真実とはなにかが、気になるのが高校生からである。


さて『王の男』のプログラムというなパンフレットには、その解説の最後の一節にこうある。

『王の男』は、「男」や芸人たちが燕山君の悲しみを癒したと描いている。史料を頼みの綱とする歴史家にとって、もははこれについて語る資格はない。自由な想像力を羽ばたかせることのできる映画作家をうらやむばかりである。

解説的文章の終わりとしては、うまい終わり方だと思うが、しかしここにあるのは史料重視つまり残され記録された事実重視の歴史家と、歴史離れして想像力を飛翔させることのできるフィクション製作者というあいもかわらぬ二分法なのだ。史料頼みの歴史家と想像力を羽ばたかせる映画作家がクロスすることはない。あくまでもふたつの領域が截然と分かたれるのみである。


もちろんこの歴史家は、史料が現実あるいは真実そのものであるとは語っていない。この作品のなかでの暴君のイメージは後年の歴史書のなかで構築されたもので、真実そのものではない可能性を、この歴史家はちゃんと認めている。頭が固いわけではないのだ。しかし、二分法を維持する限り、史料=事実、映画・文学=虚構という二分法が維持されている限り、つまり史実を無視し歴史に関わらない虚構作品ほどつまらないものはないし、想像力を欠如させた歴史研究ほど真実とはほど遠いものはないという、両者の交流と交錯、史料なんて虚構だし、虚構に真実が含まれるという認識の反転がない限り、ここにあるのは史料を扱う歴史家の超越性の主張そのものなのだ*1。「うらやましい」とは謙遜しているようで、実際には馬鹿にしているのである。


史料は事実だし、それは歴史的存在なのだが、そこに書かれていることがすべて真実だったり事実であることはない。ところが歴史家はこのことがわからず、史料が真実だと信じてしまうのだ。同じことは虚構作品についてもいえる。虚構作品のなかに事実が書かれていないからとって、虚構作品の存在そのものが歴史的事実であること、その効果が現実のものであることを忘れてならない。ところが往々にしてこれは忘れ去られ、虚構作品はただの一片の真実とも関係しない絵空事にされてしまう。ハムレットが父親の復讐をしたことは、事実でも歴史的事件でもない虚構にすぎないが、しかし『ハムレット』の上演が観客を感動させたり激怒させたとしたら、それは新聞で報道されてもいい事実である。結局、史料の存在は歴史的事実だが、そこから内容を真実と捉えてしまうこと、虚構の内容は事実と接点を持たないから、それが現実の受容者に効果を与える歴史的存在であることが忘れさられてしまうこと。要は存在論と認識論の混同が起こること。この混同から歴史家はいまもなお抜け出してはいないのである。


いや歴史家が嫌いなのは、文学談義以上に、哲学的思想的談義だろうから、存在論がどうの認識論がどうのと語ってもうっとうしいだけである。史料重視と歴史家がいうとき、あらゆる歴史は現代史であると語ったクローチェとは異なり、現在の価値基準を過去の歴史についてあてはまめることを厳しく禁止するということだろう。だがほんとうに禁じているのだろうか。そもそも歴史と文学との(私が中学生時代以来、ずっと聞かされてきた)定式自体が、近代の発案であって、それを過去のものにあてはまめること自体、現在の価値基準に左右されていることになる(とはいえ現在といってもポストモダン以前の現在だろうが)。歴史と文学は、西洋でも反対語ではない場合なり時代がある。historyとstoryは反対語かもしれないが、同時に新聞記事のことを英語では今でもstoryということからも、両者の区分は歴史的にみても曖昧で会う。それを一昔前の歴史観で歴史と文学、史料と虚構と二項対立にされても面白くない。その二項対立をもって歴史を語るときの姿勢とすること時代、時代錯誤である*2


このことはさらに、この歴史家が王朝の歴史、君主交代について語りながら、あとのことは想像力のなせるわざとして、たとえば芸能史について何も触れていないことからも立証できる。朝鮮半島の芸能史について、この歴史家は専門家ではないかもしれない。そもそも芸能史が語られるくらいの史料が残っているかどうもかも私は知らない。しかし語らないことへの言い訳が、私の専門ではないとか、史料が残っていないとか、限られたスペースでは無理だというのではなくて、「想像力を羽ばたかせる映画作家はうらやましい」というのだから、おかしくはないか。つまりここにゆくりなくもあらわれているのは、芸能史や文学史への蔑視あるいはそこまでいかなくても正当性の欠如意識なのだ。芸能史も文学史も歴史の一部であり、文化の一部である。史料だってやまのように残っているはずだ。しかしにもかかわらず、この歴史家は、それを歴史研究とは無縁のこととしてカテゴリー化している。これはもう時代錯誤以前の、歴史家の超・高慢と偏見Extreme Pride and Prejudiceではないのか。


エドワード・サイードは、現在のアラブ世界のことを知りたければ、アラブ世界を悪魔化する西洋のプロパガンダじみた歴史書とか解説書などを読むよりは、アラブの小説を翻訳でもなんでもいいから読んでみることだと語ったことがある*3。捏造と操作による史料から得られるものよりも、想像力を羽ばたかせた虚構のほうにこそ真実がある。私たちがこの映画から知りたいと思うのは、たしかに芸人と国王や宮廷との関係は、単純化されていて真実とは程遠い感じがするが、しかし演ずる者たちと演じられる者たちとのジェンダー問題、あるいはさらに現代の韓国でこのような同性愛物が作られること、いや韓国で多くの観客を動員したことの現代史的意味を語って欲しかった。しかし、もちろん語らなくてもいいし、語れなくてもいい。ただその言いわけが想像力云々というのは、あまりに想像力が欠如していないか。あっ、つまりこの歴史家はみずからの想像力の欠如を身をもって証明したということなのか。それはそれでめでたいことかもしれない。

*1:おもしろい仮定として、――たとえば逆に、作家が、「想像力をはばたなかせない史料解読ができる歴史家がうらやましい」と書いたとしたら、これは痛烈な反語的皮肉になることもこのことと関係している。

*2:つまり歴史と文学という対立は意味をなさない。一見対立しているように見て、文学も歴史のなかに含まれるのであり、歴史的存在でもあるのだから、この事実を考えれば、この対立は無効である。

*3:ここで前提とされている小説はリアリズム小説とは限らないだろう。幻想的抽象的な小説でも、アラブ文化に触れられることはまちがいないのだから。