世界で一番質素な雑煮


私の大学院時代の指導教官とは、正月の雑煮のことでは意見が一致していた。いわく、私たちは日本で一番質素な雑煮を食べている。とはつまり世界で一番質素な雑煮を食べているということだ。


指導教官は三重県出身だったが、母親は名古屋出身ということで、雑煮も名古屋方式ということだった。私の母は山口県防府市出身だが、名古屋で暮らすようになってから、山口県方式の雑煮を作ろうとしたが、当時は、材料もなかった(いまでこそスーパーなどで、角餅、丸餅など年中手に入るようになったが、昔は餅といえば正月しかなく、名古屋で丸餅を買うのは難しかった。自分の家で、餅をつかないかぎりは)。祖母も同居していたので、名古屋風の雑煮にすることになった。こちらは郷に入っては郷に従えということになった。


母は最初、嫁いだ家が貧乏だから、こんな雑煮を作るのだと思ったらしい。そう思うのも不思議でないくらい名古屋の雑煮は質素である。作り方は簡単。だし汁に醤油を入れ、あとは切り餅を入れて、煮る。煮ると、餅が溶けはじめて汁が濁る。入れるものといえば、餅菜と昔は呼んでいたが、これは小松菜のことである。つまり餅を煮る雑煮で、具は小松菜。たったこれだけ。名古屋のきしめんのように、鰹節をかけることもするようだが、そんなことをしても手遅れである。濁った汁のなかに溶けて形が崩れそうになっている餅と小松菜浮かんでいる。戦国時代の雑煮か。


事実、この質素な雑煮は、一説によると江戸時代徳川将軍家尾張徳川家限定だったのかもしれないが)の正月の雑煮で、江戸幕府の時代になっても、質実剛健な戦国時代の気風を忘れないために、小松菜だけの質素な雑煮を食べたといわれる。ただし将軍家では質素な雑煮は元旦だけで二日目からは豪勢な雑煮にかわったらしいのだが、尾張名古屋の庶民は二日以降も、この質素な雑煮を食していたらしい。


私の子供のころは、正月しかない雑煮だったので、珍しさと祝祭気分で、そんなに気にもならなかったのだが、この年になると、さすがに応える。質素すぎる。かといってほかに選択肢をもっていない。この質素な雑煮を、世界一質素なこの雑煮を食べないと正月を迎えた気がしないから不思議なのだ。まずくて食べられないということはないが、おいしいご馳走ではまったくない。それにしても、その質素がけっこう応える。


今年は、妹夫婦が、家の庭にできたという柚子の実をいっぱいくれた(クリスマスに七面鳥を焼いて持って行った御礼でもある)。家庭の庭先にできたものだから、当然のことながら、無農薬。ワックスもかかっていない。安全な食材である。その柚子の皮を刻んで雑煮いれてみた。柚子の皮が入っただけで、突然、雑煮が上品な味に変わってしまった。大失敗だ。私にとって正月の雑煮は質素さの極地なのだ。柚子の香りなどもってのほか。正月早々、なんたる失敗をしでかしたのだろう。