愛は悪魔


1月1日のなんでも鑑定団では、司会の島田伸介がゲストと、鑑定眼を競い合うというもので、最初から鑑定眼もない私にも、ぼんやりとみている分には面白く思われた。私自身の鑑定はことごとくはずれたが、それでも得意分野の西洋絵画については、なんとかわかった。3点のうち値段の高いものから順にあててゆくという問題で、私はそのうち1点が、フランシス・ベーコンの絵だとわかった。


いまにして思えば、ベーコンのあんなに有名な絵だからわかってあたりまえだが、そのときの私は、どうもベーコンの絵に見えるが、ちがうかもしれないと半信半疑のところもあった。島田伸介は、こんな変な絵は誰でも描けるから、ろくなものではないと数千円の値段しかつけなかったが、はぼんやりと見ていた私には、それがだんだんとベーコンの絵に違いないと確信がわいてきて、そのときは、相当高いものだろう、一千万円くらいだろうと考えた。


ところが答えは、たしかにベーコンの絵だが、七億円とのこと。まさに桁外れの値段である。そのとき私は考えた。オスカー・ワイルド流にいえば、私は絵画の価値valueはわかるが、値段priceはわからないということ、か。


格差社会では最上位にくるセレブは値段がわかる人間。値段のことしか興味がない人間だろう。いっぽうそのつぎのくるのはプロとインテリの人間で、値段はわからないから、金ももっていないが、価値がわかる人間である。セレブにとってフランシス・ベーコンは7億円の財産であるが、その価値はわからない。だからセレブにとっては絵画というのは厄介なものなのである。値段は高いが価値がわからない。少しも良いと思わないのである。セレブと絵画、それは物語空間のなかで一定のモチーフを形成している。いっぽうプロにとっては、七億円の絵画には手が出ないが、フランシス・ベーコンはかけがえのないものである。今、私は目の前の書棚にあるジル・ドルーズ著『感覚の論理』(山縣煕訳、法政大学出版局2004*1)の翻訳に目を留めた。ベーコンは私にとってドゥルーズとともにある。


そう、このことは、格差社会において、頂点にたつセレブと、そのつぎにくるプロ。あと、残業しても賃金も支払われないヴォランティアの三層構造を説明するときの事例となるかもしれない。値段のわかるセレブ。価値のわかるプロ。なにもわからなくて踊らされているヴォランティア。


と同時に私にとってフランシス・ベーコンは映画『愛は悪魔』*2とともにある。イギリスの俳優デレク・ジャコビがゲイのフランシス・ベーコンを演じたこの映画は、同じくジャコビがゲイの天才数学者アラン・チューリングを演じたテレビ映画作品*3とともに、現在も独身のジャコビの代表作といってもいいように思うのだが、この映画、ちょっときついものがあった。


以下R15.


映画の最初のほうで、ベーコンとか、その愛人の男が流しで手を必死で洗っているのだが、それがなにかいわくありげだと思いつつも、その意味に思いたらないのだが、映画の中盤で、手を洗うことの意味が明らかになる。フィスト・ファック。フランシス・ベーコンがパンツ一枚でベッドの脇に跪くと、愛人の男が、ズボンからベルトはずし、そのベルトを自分の左手の握りこぶしにきつく巻きつける。そこから先は、映像がなく、ただ暗示されるだけだが、フィスト・ファックは嫌だな。男の握りこぶしはかなりでかい。男の握りこぶしが膣や肛門に入る女性はいる。しかし握りこぶしのその上にベルトを巻きつけるともっと大きくなる。それを肛門に入れるのは、苦しいぞ。


ちなみに『愛は悪魔』の監督の次の作品は『ジャケット』(主演エイドリアン・ブローディ、キーラ・ナイトリー*4)だが、こちらのほうの映画は、たいしたことはなかった。ちなみにちなみに、この『ジャケット』のほうにも出演し、また『愛は悪魔』でフランシス・ベーコンの実在した愛人ジョージ・ダイアーGeorge Dyerを演じ、フィスト・ファックの握りこぶしを作ったのが、ダニエル・クレイグだった。新007ジェイムズ・ボンドである。

*1:今年からは出版情報を正確なものにすることにした。ネット上の出版情報の多くは実にいい加減だから。

*2:Love is the Devil(1998), dir. by John Mayburry.

*3:Breaking the Code (1996) dir. Herbert Wise.

*4:The Jacket (2005).