よろしかったでしょうか。あるいは欧米か。


プロミスがまたいかがわしいコマーシャルをはじめた。正しい日本語と称して、「(料理名)のほうで、よろしかったでしょうか」はまちがいで、「(料理名)でよろしいですか」が正しい日本語だと、ショコタン(中川翔子ちゃん)に言わせている。


この「よろしかったでしょうか」は昨年あたりから、日本語の乱れとして、とくにとりあげられることの多い表現だったが、基本的に不発のまま終わっている。最近の若者の日本語がおかしいという文脈で使われても、なにかしっくりいかないまま、消えてしまっていたと思われたのだが。


たとえば居酒屋のチェーン店の若い店員が「ご注文はこれでよろしかったでしょうか」というとき、過去形は間違いであるという議論が一時流行した。しかしそこから一挙に若者の言葉の乱れと行きたかったへぼ日本語論者たちはうまくいかなかった。なぜなら「よろしかったでしょうか」という言い方は、店員しか言わないので、若い店員の日本語の乱れという問題は、とくに大きな社会現象ではない。商売の世界での独特の言い回しは昔からあるのだから。と同時に、じつはこちらのほうが問題が大きいのだが、「よろしかったでしょうか」という表現は、そんなに違和感がないのである。


「よろしかったでしょうか」表現につていては、それがチェーン店の居酒屋とかレストランでの若い店員の言葉ということから、以下、推測でしかないがつぎのようなことがいえる。彼らは言葉を間違えていない。つまり雇われたている店員が勝手に間違った言い方をしたら店長に叱られる。むしろ彼らはマニュアルどおりのしゃべり方をしているのであって、むしろ、若くて判断力の乏しい若い雇われ店員たちは、マニュアルの指示を無批判に受け入れているだけであり、責められるべきはマニュアルを書いた大人、オジンやオバンである。彼ら大人たちが日本語の乱れの原因である。


ではそのマニュアルは何か。おそらくそのオリジナルは英語であって、英語のマニュアルを日本語に訳したとき、丁寧な言い方は過去形を使えと書いてあったのだろう。だから「よろしかったでしょうか」となった。その言い方を店員に徹底させることになった。


不思議に思う人がいれば、その人は英語の文法を知らない人である。テレビでは、どこかの大学の国語学者という人がでてきて「よろしかったでしょうか」というのは過去形だから、使い方が間違っているとコメントしていたが、まあ日本語についてはそういわざるをえないかもしれない。つまり日本語を考えるとき、英語の文法を適用することが正しいかどうかが問題になる。そしてそのとき英語の文法の理解が足りないと、日本語の理解も貧弱になってしまうのである。


たとえば英語の過去形は、過去に起こったできごとを示すだけではない。それは丁寧な言い方になるのだ。あるお店に入っていて、店員から"What did you want?"何をお求めでしたか」と聞かれたとき、あなたが、もし、したり顔で、「私はこの店にはじめてきた。前に来たことはないので、何をお求めでしたかというのは間違った表現でしょう」と店員の言い方を正したとしたら、バカにされるだけである。"What did you want ?"は、丁寧な言い方であると英和辞書にも書いてある。嘘だと思ったら調べて欲しい。つまり「何をお求めでしょうか?」というのは、丁寧な言い方なのである。英語では。


英語以外の西欧語を学んだ人なら、接続法というのがあるということを知っている。接続法とは、表現にニュアンス(過程、願望、依頼、丁寧、婉曲など)をつける表現で、動詞の活用形も違う。現代の英語からこの接続法は消えた。しかし接続法的表現は消えたわけではない。英語は動詞の過去形を使って、接続法と同じ働きをさせたのである。


いちばんわかりやすいのは、仮定法過去というもの。つまり動詞の過去形は、現在、過去、未来というときの過去を示すだけでなく、仮定を述べる場合にも過去形を使う。"She treated me as if I were/was a child."「彼女は、私をまるで子供であるかのように扱った」というとき、I were/wasの部分に、時間的過去の意識はない。ここにあるのは仮定、つまり「かのように」という意識である。"I could cook."というと直説法過去の場合、「私は昔は料理ができたのだけれど、味覚障害になっていまでは料理ができなくなった」というような意味だが、接続法的な仮定法過去の場合、同じ一文が「私はやろうと思えばいま料理ができる。でもしない」という意味になる(実はこちらのほう、ふつうに想定される意味)。さらにWill you…?と頼むよりは、Would you …?と助動詞を過去形にするほうが、丁寧な言い方であることは中学生くらいなら、誰でも知っている。


そう、英語の過去形というのは、たんに過去の出来事を示すだけなく、仮定とか願望とか婉曲とか丁寧といったニュアンスをつけるときに使われるのである。だから繰り返すと“What did you want?”というのは、純粋に過去の出来事を指示している場合もあれば、店員が客に丁寧に接する時の言葉でもあるということである。「よろしかったでしょうか」といのが英語由来ではないかと私が思うのも英語の過去形の用法にある。


だが、なぜ過去形を使うと丁寧に感じられるのか。それが仮定の意味になるのか。そこになるとよくわかならい。ただ過去形を使うことだけを学んできただけだから。しかしNHK教育テレビの英語関連の番組を見ていたら、なるほどという説明をしている講師がいた。


現在形と過去形という時間関係を、空間の距離感に置き換えると、現在形というのは相手と接近して距離というか空間がない状態。いっぽう過去形というのは、相手から一歩下がって距離を感じさせるもの。現在―過去は、接近―離反と対応しているように感じられる。丁寧なというのは、相手から一歩下がって、相手に威圧感を与えないで、下出から尋ねることをいう。そのためにも過去形の動詞が、この一歩下がった距離感を表してくれる。逆に、相手を脅したりするとき、遠くから脅すものはいない。相手に接近し、顔が触れるくらい、つばがまともにかかるくらいの距離で、「なにしんとんじゃ、われ」と怒鳴りつける。接近、接近、接近。その存在感と威圧感は現在形で出せる。


こうした説明が、どこまで正しいかどうかわからない。しかし納得できるひとつの説明法であり、それは過去形で接続法の代用をしている英語のみならず、他の言語においても、過去形が丁寧な表現と結びつく可能性を示唆するものだろう。たとえこれまでの日本語にはなかった表現だとしても、「よろしかったでしょうか」という表現は、「よろしいですか」よりもずっと丁寧な表現として違和感なく受け止められるのである。もしそれが気に入らなければ、「よろしかったでしょうか」に対して「欧米か」とつっこむほかはない。


よろしかったでしょうか。(お約束の結びで、よろしかったでしょうか?)