敬愛するベートーヴェン


昨年の暮から日本で上映されている映画に『敬愛なるベートーヴェン』がある。『硫黄島からの手紙』で「硫黄島」を「いおうじま」とアメリカ式に読むのは(まだ言っているのかとつっこまれそうだが)、事故ではないかもしれないけれど、『敬愛なるベートーヴェン』は事故でしょう。日本語おかしいじゃん。日本人がつけたタイトルとは思えない。東北新社にまともな日本人はいるのか。


もちろん意図的に文法なり語法をおかしくしたタイトルをもつ映画は存在する。だからうかつにタイトルがおかしい、文法的でないといっても恥をかくことがあるのだが、念のため映画をみてみた。『秘密の花園』『太陽と月に背いて』の監督でしょう。そんなにあたりはずれはないと思いつつ、シネコンへ行ったが、いわゆる大衆受けしそうな映画になりそうで、実はしぶい終わり方をするので、だったら、最初からもっと酷薄な映画にしてもよかったとしか思えない。


たしかに第九以降のベートーヴェンの晩年を視野にいれて、当時は受け入れられなかったが現代では高い評価を得ている「晩年のスタイル」を包含する内容となっていることは特筆に値する。孤独で老いた天才作曲家が、若くて才能もある女性の援助を得て第九を完成させ聴覚に障害をかかえつつ指揮まで成し遂げた物語が、さらに続くのだから。そして『大フーガ』の無残な失敗こそが芸術家の芸術家たる証となってゆくのだから。


しかしだったら、もっと厳しく壮絶な物語を選択してもよかったと思う。一説によると第九を作曲中、ベートーヴェンは聴覚を失っていたらしい。まったく何も聞こえない状態で交響楽を作曲した偉業には、壮絶な物語が秘められているはずである。また第九の指揮をし終えても、聴衆の大喝采が聞こえず、失敗した落胆したベートーヴェンを助手あるいはオーケストラの一員が、聴衆のほうに振り向かせたという有名なエピソードも嘘らしい。ベートーヴェンは演奏活動や指揮活動を第九の頃にはやめていたので。この映画でベートーヴェンはかなり聞こえるようで、コミュニケーションにさほど困難を感じていない。だが実際のベートーヴェンはそうではなかっただろう。また作曲家から聴覚を奪うという神が課した運命もまた、この映画からは、その残酷さと悲惨さと救いのなさが、あるいはその究極の克服がいまひとつ伝わってこない。


この映画の中で写譜業者が、ベートーヴェンはこんなロマンチックな曲も作っていたのに、最近は、大衆受けしない曲ばかり書いていると嘆く場面があったが、ロマンチックで感動的な部分(第九の完成と演奏まで)と冷徹でおよそ大衆受けしない部分(大フーガから晩年のスタイル)とが共存していて、それが不均衡な居心地の悪さを観客にもたらすのではないだろうか。


とはいえ映画では、芸術家の役づいているエド・ハリスの演技と、こうした役がけっこう似あうダイアン・クルーガーの演技を堪能すればよいのかもしれないが。


原題はCopying Beethovern。ベートーヴェンの楽譜を写譜して清書することを意味している。Copying Amadeusと悪口を叩かれているこの映画だが、このままタイトルを訳してもすわりが悪いと考えたのだろう。それにしても「敬愛なるベートーヴェン」とは。なぜなら日本語としては「親愛なる〜」とはいうけれど「敬愛なる〜」とは言わない。また敬愛という語は「敬愛する〜」と使うのがふつうである。またこのタイトルの語法上のミスは、映画の内容とは、まったく関係がない。あほらし。