King’s Men 4 (The King and the Clown)
『王の男』のDVD(アメリカ版)を手に入れた。アカデミー賞外国語映画賞にノミネートされたくらいだから、当然DVD化されていておかしくないのだが、まあ多少高くても日本版DVDを持っていたほうが価値があると思って、アメリカ版は購入するつもりはなかった。それに英語のタイトルがどうなっているのかわからないかったので、探すのをためらった*1。
結論から言えば、アメリカ版は購入したほうがいい*2。129分の拡大版になっている。日本で上映されものは、アメリカ版DVDをみるとかなりカットされている。そしてこのことは院生から教えられ、急遽、購入することになった。院生によると、カットは同性愛関係のシーンに及んでいるとのことだった。
まあいずれ販売される日本版DVDでも、削除シーンが収録されるだろうから、アメリカ版を買う必要はないかもしれないが、一応、ノーカット版のほうがみやすいし印象が強い。
それから映画館でみたとき、冒頭の絵巻物らしい画面に、ハングルが浮き上がっては消えるシークエンスに、日本語字幕がなく、いらいらしたのだが、アメリカ版には英語の字幕が入っている。それによれば謎のハングル文字は、出演者の名前であった。
カットされたのは肉体的同性愛関係なり欲望を強く暗示する場面であり、男同士のからみが全部カットされているということではない(期待はずれだった)。ただしカットしても物語はわかるが、カットしないほうがわかりやすいということはいえる。ネタバレしない程度にカット場面を指摘すると、
最初に貴族の寝室に呼ばれたコンギルが貴族の体をマッサージしているところはカット。
町でふたりが占い師にみてもらう場面もカット。このとき占い師は、ふたりが分かれるという。チャンセンは、自分たちは夫婦ではないから、分かれるはおかしいだろうという。なおこの占い師のシークエンスの前もカットされているため、チャンセンがどうして餅をくすねたのかわからなくなる。あの場面、映画ではチャンセンが突然盗んだ餅を出すので奇跡的な目にも泊まらぬ早業と驚くが、カット前に盗むシーンはちゃんとあった。
最初に三人組の大道芸人と出会い、技を競い合うところで、最後に焼けた炭を入れた鍋をもって宙返りをするという技(かなり危険なわざだが)の部分はカットされていた。
コンギルがはじめて王に呼ばれて、指人形の芝居をみせるとき、二体の指人形が抱きあうこと、また王がみずから指人形を手にして、コンギルのもっている人形に迫るところから、肉体的関係が暗示されている。
あるいは宮廷に囲われることになった芸人の二人が、重臣を揶揄するパフォーマンスのあとふざけて抱き合うシーンはカット。実は日本版だけをみると、二人の芸人の関係が、全体的にプラトニックなものという印象をうけるが、ノーカット版では、肉体的関係そのものか、それに近いものがあることが強く暗示される。
実は映画館で本日も観て来た。いや、二度見ても泣ける映画。アメリカ版DVDでも見たので三度見たことになるが、アメリカ版では、カットのところを確認するだけで早回しでみたので、見たとはいえないが、それでも早回しせずに最後のシーンを見たら、泣けたわい。泣き虫かおまえは。
二度観て、いくつか気付いたところもある。最初のほうで、ふたりが山中で盲人の出会いという差別的なパフォーマンスを練習するが、実は盲人の出会いというのが、全体を通してテーマになっていることもわかる。ふたりは、お互いの存在に気付かず、すれ違いを繰り返す。だが最後にほんとうに目が見えなくなってから、相手を見出す。あの盲人劇は映画の最後にも実現するし、ほんとうに最後の最後の場面で、芸人たちが繰り返す台詞も、最初の盲人劇の台詞と同じである。
チャンセンを演ずる俳優の口から右頬にかけて傷跡がある。これはたとえばホアキン・フェニックスの上唇から鼻下の傷あとと同様、見えても、見えないふりをするのが礼儀であるような傷跡かと思っていたが、実際に俳優の顔をみると傷跡はないようだ。つまりあの傷跡は意図的なもので、コンギルをかばってできた傷跡ではなかったか。
指輪を盗んだのはコンギルだった。日本版ではチャンセンが指輪泥棒をかばうのだが、誰が盗んだのかわからないようになっていた。英語版の字幕では、そのあとの指人形劇でコンギルが盗んだことをみずから告白するかっこうになっていた。日本版だけを観て、あれは指輪を盗んだコンギルをかばったのだと見抜いた人がいたが、それはすごい。その人の洞察は英語版の字幕で正しさが立証された。
以下ネタバレ Spoiler
最後の場面で、手首の動脈を切って出血して失神したコンギルが、目隠しをして綱渡りをしているチャンセンのもとに歩み寄り、綱に登る。それは手首の動脈を切って死んだのではと思っていた観客の不意を突き予想外の展開といえるかもしれない。あれは死んだコンギルの魂が戻ってきたのだと解釈した人がいた。
その解釈、あるいはそうした解釈を、私は面白いと思うし、好きなので、どんどんそうした話を聞きたいのだが、そうした可能性(死んだ人間が亡霊となって出てくる、あるいはほんとうは死んでいましたという設定)が十分成り立つと認めた上で……
同時に、動脈を気って失神してもすぐに発見され手当てを受ければ、起き上がって動けるようになる。いっぽう焼き鏝で目をつぶされたら、そのまま死んでもおかしくないのに、生き続けるのに、動脈を切ってすぐに発見されても死んでしまう(自害とか切腹ではないため)というのは、チャンセンの強靭な肉体とコンギルの虚弱体質を前提にしない限り、均衡を欠いているとしかいえない。
やはりコンギルは起き上がって出てくるのでは。また物語の展開を考えると、革命が迫っているので、その騒乱にまぎれて逃げ出すこともできるが、最後の最後の場面が芸人たち(死んだ者も含まれる)のありえない再会の場面であることから、二人は革命の渦に巻き込まれて死んだということが暗示される。
つまり最後の場面は、二人が死んだことを暗示する。となると最後の場面とはいったいどこのどんな場面か。芸人たちが陽気に歌い踊る天国の場面といえるが、そうなると誰がこの最後の天国の場面を見ているのか。観客か。観客と同時にチャンセンでもあろう。つまりそこは死んだチャンセンが赴いた死後の世界(観客の/に向けたファンタジー)という見方と、チャンセンが死ぬ直前に夢見た死後の世界での再会という、チャンセンのファンタジーというふたつの見方ができる。
そこからひるがえってみると最後から二番目の場面、つまり宮廷の中庭で盲目になって綱渡りをするチャンセンの場面は、目が見えないチャンセンが最後に夢見た姿かもしれない。目が見えなくても綱渡りができる超絶演技と、そこに再会のために出てくるコンギル、そしてコンギルとの再会と出会い。彼らを破滅に導いた者たちの破滅。芸人として王の前で演ずるという栄誉。綱の上という歴史にも社会にも権力も及ばぬ王国のなかで永遠に結ばれる二人−−それはチャンセンが死の直前に見た、いやあるいはずっと夢見てきたファンタジーかもしれない。実際に、チャンセンこそ、その場にいなくて、処刑される前に、こうしたことすべてを夢見ているのかもしれない。チャンセンのファンタジーは、みずからの死後にも及ぶのである。
こうして最後から二番目の場面は、物語の中でリアルの次元として生起している出来事であると同時に、目が見えないチャンセンが見たファンタジーでもあるという、主観と客観、現実と幻想の両面をそなえたものとなる。ドゥルーズの言い方をかりれば、これは時間イメージである――あるいは「時間クリスタル」(新訳での訳語は確認していない)といってもいい。映画の最良の部分は、こうした現実と幻想と表裏一体化した、あるいは渾然一体化した映像を見せてくれることなのである。