欲望という名の電車 2 ぼくはやっていない


母と山手線に乗ったときの、もう一つの思い出は、私が痴漢とまちがわれそうになったことだ。混んでいる山手線の車内でぼんやり立っていたのだが、私の前に立っていた若い女性とその女性の友人がなにひそひそ声ではなしている。時折、わたしのほうをみやって妙に警戒している。そして、ふたりは声を潜めてはいるが、それでも私に聞かせるふうに、もしこんどなにかあったら、言うから、しっかりみててねと片方が言うと、うんわかったともう一人が私のほうをちらっと見ながら言うのだ。


私にも事情が飲み込めてきた。どうやら私は痴漢に間違えられているのだ。私が持っていた鞄が、私の気付かぬうちに、その女性の身体に触れたかもしれない。しかし、いくら私がぼんやりしていても、自分の手や脚でその女性に接触してはない。あるいは、その女性は私ではない誰かに痴漢行為を受けていたのかもしれないが、私に疑いの目を向けている。私としてはあらぬ嫌疑をかけられぬうちにその場を離れたほうがいいのだが、混んでいる電車のため、動くに動けない。


ただそのとき私は母といっしょにいた。いくら混雑している電車のなかとはいえ、母親といっしょに電車に乗っている人間が、母親の目の前で痴漢行為をはたらくとは考えにく。ありえない話だ。もしその女性が大声を上げて私を告発しても、母親といっしょのところで痴漢をはたらくわけはないと自己弁護できるから、安心だと思ういっぽうで、母親がいながら、その目の前で痴漢行為をする破廉恥な馬鹿と告発されるかもしれない。そうしたらどうすると思っているうちに、電車が駅についたので、私と母はその駅でホームに降りた。その女性二人も同じ駅で降りた。ただ目指す方向は違っていたので右と左にわかれた。それで痴漢冤罪の危機は去った。降り際に私は、その女性の顔をちらっとみた。


そのとき私がどう思ったのかと書くと問題発言になってしまうのだが、ただ正直なところを、嘘偽りなく書いておきたい。問題発言になることは承知している。ただ記録としてとどめておきたいのだ。


その時私は、E・M・フォースターの『インドへの道』に登場するアシズとかいうムスリムの医師と全く同じ事を思った。