DOA

この時期になると気持ちが重くなるのは、大学院の受験があり、合否を決めるために、試験の採点とか提出された卒業論文修士論文を読む必要があり、かなりあわただしく、またむなしい日々を送るというか、むなしい時間をすごさなければならないからだ。


ただ楽になった部分もある。とはいえ楽になったからといって喜べないのだが。大学院への志願者が減って採点する答案の数が当然減ったので、採点が楽になった。昔はいまよりも3倍も4倍も答案があって、採点するのにかなりの労力を必要として頭のなかが真っ白になりそうだった。昔と言っても、いまから10年以上も前の話ではないのだ。


しかも定員はかわっていないから、いまは大学院には入りやすくなった。そのうち希望すれば全員は入れるようになるかもしれない。それがいいかどうかはべつにして。


また大学院の博士課程も募集しているから博士課程への入学希望者は増えたといえようか。入学者は願書提出と同時に、修士論文を提出するのだが、それを読むのはたいへんな労力を必要とするが、問題は、労力ばかりではなく、評価をつけなければいけないことだ。そしてここに問題が立ちはだかる。


私たちが評価を下す修士論文というのはアメリカの**大学に提出され合格した修士論文であったり、イギリスの++大学に提出され合格した修士論文であったり、さらには日本の○○大学に提出され合格した修士論文であったりするとき、すべて合格ならいいのだが、不合格になる論文がある。国内の大学に提出されたり、提出予定の修士論文については、基準が違うとか、こちらが求めているレヴェルが違うとかなんとか理由づけができるのだが、英米の大学に提出され合格した修士論文となると、ちょっと考える。というか戸惑うことがある。書き手は日本人である。日本人の英語としてはじつにすばらしくて、英語として流暢で違和感がない。英語面では問題がない。しかし問題がないがゆえに際立つことがある。内容の貧弱さである。英米の大学に提出された修士論文には、レヴェルが低すぎ、内容が貧弱すぎるものが多いのだ――英語が立派なだけによけいに。


同僚によればアメリカの大学の修士論文っていうのはカスみたいな物だ。修了させて追い出すために、なにか書かせてそれを修士論文としてよしとする。


内容だって、授業の終わりに出させる授業レポートのようなものだ。議論や論証などなく、ただ調べて書きましたというような、解説めいた修士論文が多い。なるほど授業レポート。もしそうならそれなりに理解できる。


するとまた別の同僚。イギリスだって同じようなものですよ。


しかし、そうであっても、当然のことながら、優れたものはある。欠陥があっても、それ補うに十分な優れた点が満載の論文もある。だから一概に英米圏での修士論文はよくないと決めつけられない。


結局、最近では論文点と筆記試験の点数、さらに面接点とわかれ(このうち論文点だけは合格か不合格かの2段階評価)、分割して評価を出すようになったのだが、これはよいことかもしれない。ただこのことは、受験者が情報開示を要求しないとわからない(と思ったが)のは残念である。