コーカサスの白墨の輪1

今日の大学の会議で昨年のある事件のことを思い出した。


大学の研究室から帰ろうとしていたところ、一本の電話。事務の方から大学の女子トイレで事件があった。騒ぎはおさまったが、現在、関係者を引き止めている。どうもセクハラ関係のことかもしれないので、先生から事情を聞いいただけないか。委員長のA先生はお帰りになったようだから、副委員長の先生にお出で願えないかと……。めんどうなことがおこったようで、嫌だなと思いつつ、すぐに駆けつけると返事をした。


私がある部屋に到着したのをきっかけに、当事者3名と、事務の課長1名、そして私の4名で、この場所ではなんだからと、奥の会議室で話を聴くことにした。事情聴取したその会議室で、本日、会議があった。それで当日のことを生々しく思いだした。


当事者は3名。Xさんは女性、Yさんは男性、それにZさん。区別しやすいようにXとZさんは女性で「さん」付け、Yさんは男性で「君」付けにする。便宜的な処置である。


なお事情聴取は大学側から私と課長の2名でおこなった。3名の名前は聞かなかった。だからその3名が誰かは、たとえ拷問されても答えようがない。ほんとうに知らないのだから。名前を聞かずに聴取したのかとあきれられるかもしれないが、すでに学生相談所(仮称)に3人とも相談済みであり、いずれまた学生相談所のほうからも事情を聞かれることもあるだろうから、とりあえず、何があったのかをはっきりさせ、問題がなければ帰ってもらう。また問題があるようならしかるべく処置をとるということで、順番に話を聞いていった。3人とも、本学本学部の学生である。


女子トイレで何があったのか、三人の関係がどうなっているのか、それについて、まったく予備知識のない私が錯綜した証言と、声高に相手を非難するが、なかなか真実を語りたがらない3人からいかにして真相を聞きだすにいたったかについては、有能な劇作家なら一編のドラマにするかもしれない。


 中央に楕円形のテーブル。テーブルの観客から向かって左端にX。中央にZ。その隣にYが着席。この三人に相対するかたちで審問者のB。その隣に係長のC。Bは五〇代の小太りの男性で観客には背中しか見えない。後姿ながらぽっちゃりと膨れた頬が見える。髪はやや長め。頭頂は髪が薄い。しゃべり方はやや咳き込むような早口で時々聞き取れないこともある。隣のCは60代前半の男性。教授のBに遠慮してか、事情聴取を観察しているだけで、ほとんど発言はしない。
 部屋は新築のようで、壁といいインテリアといい全体的に白を基調にしているが、作りつけの書棚の片隅に飾られている本(ギリシア文化に関する英語、ドイツ語、ギリシア語文献)が白のモノトーン化をじゃましている。……。


求めに応じて発言する3人の学生のうち、とくにXとYは、相互に相手を批判、その根拠は、それなりに説得力があり、審問官も観客も、Xさんの話を聞くと、彼女に同情するが、つぎにY君の話を聞くと、むしろ彼のほうに同情したくなるが、また次の瞬間、Xさんの発言によって、Y君の全面的被害者説が揺らぐことになる。


審問官も観客も、それぞれの証言におけるリアリティと説得力の前に、ただ右往左往してなかなか真相がつかめない。それがこの劇に緊迫感を与えている。


と同時に、真相を見えにくくしているのは、審問官と観客が勝手に形成してしまった、ある種の先入観があるためで、これがわかると事態は様相を一変させる。


最初、私は、男性のY君をめぐって、元彼女のXさんと現在の彼女のZさんの間に争いがあるのだと考えた。ただ元彼女のXさんと現在の彼女のZさんも友人というか、(大学に入ってからかどうかわからないが)とにかく知り合いらしい。XさんとZさんは友人であるが、自分をふってZさんと恋人同士になったY君が憎いのか、XさんはY君に対してストーカーまがいの嫌がらせをしているらしい……。


Xさんは元彼のY君に、いやがらせをしているらしい。Y君はそのことでXさんを憎んでいる。いっぽう板ばさみになっているZさんは、Y君とは恋人でいたいが、Xさんとも中のいい友だちでいてほしい。ZさんはXさんから嫌がらせを受けてはいない。


事件その一。あまりにうるさく付きまとうXさんに対してY君は、公衆の面前で、罵倒し、さらに突き飛ばすというような暴力を振るったらしい。そこでXさんは学生相談所(仮称)に訴え、XさんとY君との間で話し合いがもたれ、結局、Y君は今後、Xさんに**メートル以内には近づかないし、もしそういうことになったら訴えると念書のようなものというか、これが念書というものなかもしれないか、を交わしたとのこと。


第一の場面(過去)。Y君はXさんに罵声を浴びせたり、体にふれて暴力まがいの行為に走ったかもしれないが、彼はストーカーではない。Xさんのストーカー行為をやめさせようとして彼女と衝突したため、自分が加害者のストーカーのような立場になって念書を交わすはめになった。


第二の場面(現在)。女子トイレでなにがあったのか。XさんとZさんが女子トイレで話しているときに、ZさんのあとをつけてきたY君が、ZさんとXさんが女子トイレで話をしていると確信。そこでXさんのストーカー行為もしくは暴力まがいの行為の証拠を写メールに納めようと、女子トイレのなかに足を踏み入れ、二人の前に携帯を構えて登場、驚きまた激昂したXさんが大声をあげ、あと大騒ぎになった……。


第二の場面についていえば、Y君は、Xさんの**メートル以内に近づいてはいけないという禁を破ったから、これは警察に訴えられてもしかたがない。また彼は同時に女子トイレに入ってきたのであり、これだけでも非常識な行為をしているし、さらに無断で写メールを取ろうとした点で、弁護の余地はない。これがXさんの見解である。


どうも話がつかみにくいので、さらに事情を聞くというか、疑問点を問いただしてゆくと、彼らも、重い口をひらくことになった。彼らにしてみれば、自分たちの関係は学生相談所(仮称)では把握していることだから、あえて繰り返すまでもないと思ったとしても、これはおかしくない。


しかし、私にしてみれば、ゼロからの出発であり、なにもわからないところから証言を聞きし推測を交えて人間関係を構築しなければならない。私の構築力のなさは、彼らのさらなる証言によって確実なものとなった。


つまりY君という男性をめぐるXさんとZさんの三角関係(ただしXさんとZさんの関係は敵対関係ではない)ということではなかった。


そうではなくて、Zさんをめぐって、XさんとY君が取り合いをしているということだった。


ストーカーはXさんだった。しかし彼女は元彼のY君につきまとうのではなく、前から仲がよく、恋人でもあったZさんに付きまとっていたのである。


つまりX←Y→Zではなく、 X←Z→Yであった。三角関係の頂点にくるのはY君ではなく、Zさんだったのだ。


審問官:
あ、だからそう、君たちは、そうやって並んで座っているのか。Zさんが真ん中で、Zさんの、こちらからみて右隣にY君。またZさんのこちらからみて左隣にXさんが座っていて、XさんとY君は、たがいに相手の顔もみたくもない。そういうことだったのか。


 事務係長、驚きの表情のままメモを書いている。暗転。


 数秒後、前と同じ会議室。座っている場所も同じ。
 三人のうちXとZは互いにそっぽを向き、口を聞くこともない。
 Zは真ん中に座り、すすり泣いている。
 審問官は、頭を抱えている。事務官はメモを取っている。


ここまでくるのに相当時間がかかっている。とはいえ会議室に時計はなく、私は腕時計をしていない。普段からしない習慣だし、ましてや、こういうところでは、腕時計をちらちら見ることは、相手にとって失礼だろ思う。まあデートしているときに、のべつまくなし相手の携帯に電話やらメールが入ってくるようなものかもしれない(携帯を切っておくのが礼儀だろう)。したがってどのくらい時間が経過したのかはっきりしない。1時間30分から2時間近く経過したのではないかと思う。


まとめてみる。
Xさんは、Y君に取られたZさんを取り戻そうとしてる。ZさんとY君との恋人関係はゆるぎそうもない。しかしZさんがほんとうに愛しているのはY君ではなくて、自分つまりXさんのことだと確信している。


Xさんは、Zさんと仲良く友人付き合いをしたいだけのことかもしれない。それほど強いレズビアン感情はないのかもしれない。しかしZさんとの付き合いを許そうとしないY君がいることによって、逆にZさんへの愛とY君への憎しみが増加し、彼が自分を罵倒し暴力をふるったことで、その憎しみは一挙に膨れ上がった。今回のトイレでの常軌を逸したY君の行動も許しがたいと思っている。


私はXさんがZさんに対するストーカーだと思っているが、Y君に暴力を振るわれ、彼がストーカーになってしまってから、優位に立つことができ、彼を追い詰めることしか頭になくなったのではないかと思う。彼が追い詰められ、Zさんと別れる、あるいはZさんがY君のことを嫌に成れば、満足するのはXさんである。私はY君のヘテロセクシズムには辟易するところがあり(若い男性はみな度し難いヘテロセクシストかもしれないが)、むしろXさんを応援したい。彼女のレズビアンもしくはレズビアン的愛情は、Y君とZさんとの関係のなかに共存できるのではないかと思う。それを許さないY君は非難されるべきであり、また彼女もまたY君とZさんとの関係を引き裂こうとするなら、非難されるべきである。またレズビアンの人も含め、同性愛の人が異性愛者に恋人を奪われてゆくつらさというのはただの失恋ではない痛みをともなうため、私はXさんに同情するところがある。どうか泣かないで欲しい。私はあなたを責めていない。あなたの涙をみると、胸が痛い。


まとめてみる。
Y君にしてみれば、自分の恋人のZさんにつきまとうXさんを公衆の面前で罵倒したりしたことについては反省しているし、**メートル以内に近づかないという屈辱的な念書を書かされたことについても、あえて自分で泥をかぶることにしたわけで、自分にも非があり、それでまるくおさまるならストーカーになってしまってもいいというのは、賞賛に値する決断と行動だと思う。またそうすればXさんも気がすむだろうと考えたことも、結果的にその判断はまちがっていて、彼女をますます増長させることになったとしても、正しいことだと私は考える。


ただ悔しかったのだろう。逆にXさんをぎゃふんといわせようとその機会を狙っていたのかもしれない。たとえ無意識のうちであっても。それが軽率な行動となった。トイレについて行き、なかでZさんがXさんに問い詰められていると想定して、女子トイレに進入したのだから。もちろんXさんにしても、Zさんに接近をするということは二人の仲に割って入ろうとする妨害行為の意図がなかったわけではないだろう。彼のトイレ侵入を誘ったのはXさんだったかもしれない。しかし結果的に侵入して大騒ぎになったのは事実であり、それは軽率な行動だった。


Y君:
もし先生の奥さんが、トイレにそうした女性とふたりになったというときに、助けに行くでしょう。
私:
助けてくれと悲鳴でも聞こえたらね。なにか助けを求める声が聞こえたのか。
Y君:
言い争っているような声が聞こえました。
私:
だったらほうっておけばいいじゃない。女性二人の話し合いにまかせたら。(私は独身だとでもいうと、恋人や夫の気持ちはわからないといわれそうなので、それは黙っておいた)。


まとめてみる。
Xさんも痛みを感じている。ZさんとY君の仲をじゃまはしたくない。二人の仲を見守りたい。Zさんとは仲のよい女友達であればいい。べつに深い関係はなくていい。……だがそうはいっても、Zさんを失いたくはない。なんとかしてY君をおとしいれてやりたい。ZさんはほんとうはXさんのことしか愛していないのだ。現在のY君との関係は欺瞞なのだ。え〜い、Y君は、なんてじゃまなんだろう。


Y君も痛みを感じている。Xさんのストーカー行為がやむのなら、自分にも言い分はあるが、屈辱的な約束をした。それはみずからのプライドを傷つけるものだっただろうし、またZさんのことを思えばのことでもあった。ZさんとXさんが仲良くするなら、それでもいい。ただ友達と恋人との関係には線を引いてくれればそれでいい。……だが、そうはいってもZさんとXさんが会うの許せない。俺を差し置いてなにをこそこそ会っているのだ。こっちはお前に近づけないのだ。Xはそんなに俺を苦しめて嬉しいのか。うざい女め。


ここまでくると審問官も、観客も、解決の突破口がどこにあるのか、見えてくる。そうZさん。彼女が態度をはっきりしてくれれば、解決にはなる。ここにしか突破口がないではないか。


To Be Continued.



(なおこの一文はスキャンダラスな関係を暴いて面白がっているのではない。次回に明らかになるように、この3名には大学側が間違った対応をした。その責任の一端は私にもある。私はその後3名とは接触していないが、私の認識と、お詫びの言葉を記しておきたいがためである。)