Mr Norris


本日は卒業論文の口頭試問だった。


ある卒論に関連して、昔のことを思い出した。私が英文科に入学した頃(それは現在教えている大学とは違う大学だったが)のこと。国立大学だが、教養学部がなくて1年生から専門課程に編入されたので、英文科の学生として勉学意欲に燃えていた私は、英文科の学生なら、英語の長編小説を英語で最初から最後まで読める能力を身に付けたいと思った(まあそれは当然の身につけるべき能力なのだが)。


当時、英潮社ペンギンブックス・シリーズがかなりの点数出ていた。これは英国のペンギンブック社の原書に、日本語の解説や語注をまとめた冊子(サイズは原書と同じ)を独自に作って、ひとつの箱に入れて売っていたもので、いきなり原書を読むのには抵抗のある学習者には、とてもよいシリーズだった(いまでも少し残っている)。


とはいえシリーズそのものは難易度に差があって、英語の教科書にも使われるよく知られ、読みやすい作品(たとえば、ジョージ・オーウェルの『動物農場』)から、相当英語力と忍耐力がないと読破できないような長編作品(ヘンリー・ジェイムズの『ある貴婦人の肖像』、ロレンスの『恋する女たち』、フォークナーの『響きと怒り』など)にいたるまで、ヴァラエティに富んでいた。大長編の場合、ただでさえ厚い原書に、分厚い注釈冊子がついて、それが箱にはいるのだから、そうとう持ち応えのある本となった。またけっこう難解な作品の場合には、注そのものがアカデミックな業績としておかしくないものもあった。


さてかなり充実していたラインナップのなかで、私が最初に選ぼうとしたのは、翻訳がないか、もしくは用意に手に入らないもの(翻訳があるとそれに逃げてしまうかもしれない)、あまり長くない作品(長いと途中で挫折するかもしれないので)、そして名前の知らない作家の作品(どんな作品だか見当がつかないほうが、勉強になると思った)だった。そこで選んだのはクリストファー・イシャーウッド*1Mr Norris Changes Trains(1935タイトルは文字通り、『ノリス氏、汽車を乗り換える』という意味)だった。


いまの若い学生たちは、イシャーウッドの名前くらい知っているかもしれないが(知らなくてもおかしくないが)、Mr Norris Changes Trainsまでは知らないだろう。当時、英潮社ペンギンブックス・シリーズにこれがあったのだ。


結果として、よい勉強になった。つまりどんなつまらない本でも、英語で原書を読むと、読んだあとの達成感はなにものにも変えがたいということが実感できたのだから。私はいまでも学生に英語の長編小説を読むことを勧める際に、どんなにつまらない小説でも、それを最後まで読めば、まちがいなく英語の勉強にはなるし、読んだ後の達成感はすばらしいと教えている。要するにいシャーウッドのその小説はつまらなかったのだ。全然面白くなかった。


20世紀の終わりの頃に、その小説を読み直すことがあった。鉛筆でぎっしり単語の意味が書き込んである原書のページを、なんだかこんな単語も知らなかったのかと、冷や汗をかきながら読み進めたとき――え、語注があるのに、どうして単語の意味を調べているのかって。単語力がなかったので、語注だけでは、意味を把握することはできなかったのだ。恥ずかしいことに、ね――、この小説の面白さがわかった。


イシャーウッドのこの作品は、映画にもなったミュージカル『キャバレー』*2の材料となった同じくイシャーウッドの『ベルリン物語』The Berlin Stories(1945)に含まれている(ほかの収録作品Good-bye to Berlin(1939)も戯曲に材料を提供した)。第二次大戦のドイツにおけるベルリンの文化などに、学部生時代よりは興味がもてるようになったこと、またイシャーウッドについての知識が増えて、作品に対する見方が当然変わったこともあるが、しかし、そうした知識がなくても、また、私が人生経験をつまなくても、20世紀の終わりの時点であの作品を読めば、多少なりともジェンダー関係に関心があれば、あの得体の知れない、詐欺師めいた人物Mr Norrisがゲイであることはすぐにわかるはずである。


Mr Norris Changes Trainsは私が生まれてはじめて読んだ長編小説ではないが、生まれてはじめて英語で最後まで読んだ長編小説(しかもその時は何が面白いのかわからなかった長編小説)であるのは、興味深い事実だと思っている。

*1:Christopher Isherwood 1904-86

*2:原作の戯曲はI am a Camera(1964)。映画版は1972年。