ナイトメア 7 夢一夜


いままでどうして気がつかなかったのだろうかと、不思議な思いにとらわれた。音が聞こえてくるのだ。最初ノイズかと思った。ぶ〜んというノイズ。だがそうではなくて、なにかメロディーをもった楽曲の断片のようなものだった。しかし、最初のノイズかと思ったくらい切れめなく続いている。エッシャーの絵みたいで、ずっと前進いているかと思うと、結局最初に戻ってくるような、ループをなす、不思議なメロディー。終わりなきメロディー。
 だが私にはこれが嘔吐感をともなう不快な音に感じられた。そもそもなぜいままで気づかなかっただろうか。そしてどこからきこえてくるのだろう。私はいま自分がいる白い壁の病室のような部屋をくまなく探してみた。天井と壁の境目にメッシュが貼ってある四角の穴のようものがある。手を延ばせばとどいた。天井が低いのだ。その低さが圧迫感の原因のひとつでもあった。
 メッシュははずれなかったが、それがスピーカーと判断した私は、部屋の机の引き出しのなかにあったガムテープで、そのメッシュの穴をふさいだ。本当は、音源ないし電源を断てばよいのだがと思いつつ、穴の口をくまなくふさいだ瞬間、音が聞こえなくなったような気がしいた。しかし次の瞬間、音はそこにあった。
 部屋の天井にあったもうひとつの穴をふさいだときも、同じだった。一瞬の静寂。だがふたたびメロディ。部屋のなかに音の出そうなものはないことを確かめた私は、いたたまれなくなって部屋を飛び出た。廊下も部屋と同じように低い天井だった。音はひっきりなしに聞こえてきた。
 そう、この音は、特定の音源をもたないかのようだった。部屋の中でも、廊下でも、音の強度や鮮明さはいささかも変化しなかった。
 この音は、空気のように、この世界に充満しているようなのだ。私が気がつくと、いつのまにかまぎれ込んでいた世界。得体の知れないメロディが四六時中流れる世界。空気のように音が存在する世界。音を絶てない世界。静寂が欲しい。もちろん完璧な静寂というものはなく、いつも何か音が聞こえるものだ。自分の心臓の音かもしれない。だがそんな微量な音ならいい。この音は大きすぎる。


 一瞬静寂があったことに気がついた。音が途切れ、完璧な沈黙が訪れたかのようだった。原因はすぐにわかった。私がべつのことを考えていたからだ。気がまぎれた瞬間、音は聞こえなくなっていた。むかしだったか、幻想の世界だったか、映画のなかの一エピソードだったか、女の子が私に大きな貝殻をくれたのだ。耳に当てると海の音が聞こえるよ、と。もちろん貝殻を耳に当てて聞こえるのは、海の音ではなく、自分の体内の血流の音だ。胎児は母親のお腹のなかで、この音を聞いている。海の音。血流の音。ご〜、とも、ざ〜ともいうノイズ。
 そんなことを考えていた一瞬、この忌まわしい音は消えていた。だが、何かに意識が集中しないかぎり、意識は弛緩し、弛緩していれば、必ず、この音が聞こえた。いつもなにかに没頭していればいいのだが、そんなことは不可能である。かりにいつでも自由に没頭できたといても、いつまで続けてよいかわからない。この音は、どこか特定の音源から聞こえてくるわけでもなく、海の音のように私の体内から聞こえてくるわけではなく、空気のように充満している、この世界の一部なのだ。
 そう、ほかの人間たちは、平気かもしれないが、私にはもう耐えられない。この音から逃げるすべがない。なにかに没頭すれば。いや、それを意識し始めたら、没頭できなくなった。もう耐えるしかない。だが私はすでにパニックを起こしている。耐えられそうもない。この世界のわけのわからなる音、メロディ。ほかの者がなじんでいても、いや意識していなくても、私には、そう私だけには耐えられそうもない、いやもう耐えられない音。私はこの世界に生きていけないのだ……。


 と目が覚めた。悪夢だった。なんて悪夢だと、私は唖然とした。だが次の瞬間、音が聞こえてきた。私は目覚めていなかったのか。いや、私はDVDで深夜、映画を見ていて、ヘッドフォンをしたまま眠ってしまったのだ。気付くと、テレビの画面が、メニュー画面でとまっていて、そこで音楽がエンドレスに流れていた。