『コペンハーゲン』長編演劇を読む 1


長編戯曲を読むシリーズの第1回がこれでは、拍子抜けかもしれない。だいいち長くない。上演不可能なほど長い戯曲を読むシリーズ? 上演可能ではないか。日本でも3月に公演(再演)がある。


まあ手始めに通常の長さの戯曲からはじめてもいいと考えた。ただ出版されている戯曲には、翻訳のページ数でいえば、劇作家のあとがきが50ページ付くが、これは本編の150ページに分量的には匹敵する。また劇の性格からもわかるのだが、これは終わらない戯曲である。解説と注釈と解釈が永遠に増殖するような、そんな戯曲と考えれば、これは長い部類の戯曲にはいる。


Michael Frayn, Copenhagen (1998, 2000) マイケル・フレイン『コペンハーゲン』小田島恒志訳(劇書房2001)。


日本公演の台本は平川大作訳だが、劇書房の小田島訳で私は満足している。この種の翻訳は、科学知識がない私には逆立ちしてもできないので、厄介な原文を、読める美しい日本語の、そしておそらく科学的にも正確な、翻訳を完成した翻訳者の力量には脱帽である。


登場人物は3人。物理学者のボーア(不確定原理を提唱した)とボーアの妻マルグレーテ、そしてもうひとり物理学者のハイゼンベルク。ト書きはいっさいないから、自由な演出にまかされている。読者としてはラジオドラマを聴くようなもので、活字から声を聞き取り、事態を、状況を、歴史を推測する。


1941年コペンハーゲンのニルス・ボーア(量子力学の形成者。有名な「コペンハーゲン解釈」の提唱者)のもとに、かつての弟子で量子力学の不確定原理の提唱者でナチスの原爆開発の責任者にもなっているヴェルナー・ハイゼンベルクがやってくる。旧交を温める二人。かつての師匠と弟子。いまではユダヤ人物理学者とナチスに協力する物理学者。ボーアの妻マルグレーテは、ハイゼンベルクの訪問を好ましく思わず、話題を科学のことに限るという条件で、ハイゼンベルクを招き入れる。昔話に話が弾んで夜、夕食後、ボーアとハイゼンベルクは、マルグレーテを家に残し、ふたりだけで散歩にでる。そして衝突。短い散歩から帰ってきた二人は、完全に決裂。ハイゼンベルクは直ちにボーアのもとを去る――これは歴史的事実。何があったのか、二人の間の秘密にされてわからない。この謎をめぐって戯曲は展開する。


ハイゼンベルクはボーアをナチスの原爆製造計画に引き入れようとして、ボーアからの拒絶にあったという可能性もある。だがユダヤ人の血がまじっているボーアをナチスの計画に引き入れること自体、無謀である(ナチスの原爆製造が遅れたのは、ユダヤ人核物理学者を全員追放したからだった)。となると原爆製造に関するヒントなりアドヴァイスを求めたハイゼンベルクはボーアに拒絶されたとも考えられる。もっと単純な解釈もある。それはボーアの妻マルグレーテからもたらされたもので、かつての弟子ハイゼンベルクは、ナチスドイツの科学的権威になりおおせたいま、そのことを自慢しにきただけだという。


他にも「コペンハーゲン解釈」はある。ハイゼンベルクアメリカ側の科学者たちと親交のあるホーアから、アメリカでの原爆製造計画について情報を引き出そうとした。あるいは情報を引き出すようにボーアに依頼した。そこでボーアの拒絶にであった。


真相をめぐって、さまざまな可能性と憶測が交錯する。しかし、それはおかしいと不思議に思われるかもしれない。なぜならこの戯曲に登場するのは、歴史家でもなければ、証言者・目撃者でもない。当事者たちなのだ。マルグレーテには何があったかわからない。しかしボーアとハイゼンベルクは当事者なのだ。にもかかわらず真相は、複数のヴァージョン(可能性)が提示されるだけで、決定的なことは語られない。興味深い事実あるいは可能性は劇が進展するにつれてつまびらかにされる。しかしそれとて真相を中空の周囲を回るいくつもの衛星の一つにすぎないのである。


この不思議さやもどかしさは、登場人物の三人が、あるいは読んでいると三つの声が、1941年に位置するのではなく、後年になって1941年を回顧するというポジションにいる(あるいは彼らは亡霊として再会し、過去のもうひとつの再会をめぐって、その意味を考えているようにもみえる)。こうなるともはや当事者ではない。そして量子力学における不確定性原理や相補性原理などが、予想通り持ち出され、人間の意志や意図や行動の不確実さ、それを観察する側の不確実さが問題となる。行動すると観察できず、観察すると行動できないという相補性原理も持ち出され、このある意味で「藪の中」の戯曲は錯綜の度合いを深めていく。


事実、これほど真相(とおぼしきもの)だけは語るまいとすかにみえる戯曲、真相に近づいているよりも、その周囲をまわりつづけている、ときには真相から遠ざかっているのではないかと思われる戯曲が、観客を最後まで魅了しつづけるというのは、劇作家の技量のなせるわざであろう。これは読んでいるときは違和感があり、よくわからなかったのだが、ボーアはこの会見のことについて記録を残しているらしい。しかし、いくつもの記録を。いくつものヴァージョンを残している。となると真相を記録するというよりも、「真相」を捏造しているのではないか。戯曲でも、会見に関するドラフト(下書き)を書こう、書き直そう、これが再度のドラフトだという台詞が出てくる。結局、ボーアにとって、真相あるいは核心に至ることよりも、いかに整合的な解釈を提示して、真相を隠蔽するかという問題のほうが重要だという印象をうける。戯曲がすすんでも、真相が徐々に明らかになり、核心に迫るというよりも――そんな感じがするのだが――、最終的には、誰もが満足する整合的解釈を作成することのために下書きを作っているという思いから逃れられない。結局、そこで観客・読者は問いに立ち返るしかない。いったい何が起こったのだ、と。


ただひとつだけ、興味深い可能性も語られる。ハイゼンベルクナチス・ドイツの原爆製造に協力しているふりをして、実は、遅らせたのだという可能性。もちろんそれを意図的に行なったのか、あるいはハイゼンベルク自身による初歩的計算ミスあるいはハイゼンベルク自身が初歩的な事実や情報を知らなかったか、そこはわからずじまいだから、意図的に妨害したのか、結果として妨害することになったのかは、またもや不確定性の雲のなかに消えてしまうのだが、ハイゼンベルクは、協力者ではなく妨害者であったという可能性は興味深い。


そう興味深いのだ。本編について劇作家自身が解説を加えているが、そこでは元になった事実と解釈について、蓋然性のない解釈なり可能性を劇作家は丁寧に消去していくが、同時に、それ以上に多くの可能性なり解釈なりが出てくるので、結局、作家の解説も最後の言葉ではない。おそらくこの戯曲については、誰もが最後の言葉を語ることができないまま、延々と最後からの二番目の言葉を語るしかないのかもしれない。


そこで私も最後から二番目の言葉を語ることにしよう。『コペンハーゲン』解釈では忘れられていることがある。父親と思しき人物に夜、連れられて出てゆく息子。この息子は、新たなナチスドイツという義父のもとで、従順な協力者にみえるが、その実、何を考えているかわからない。そしていまボーアとハイゼンベルク、この父と子は、マルガレーテという母を残し、母には知らせてはいけないという意図のもと、夜の世界にさまよい出る。なにかを伝えるか、伝えられるために。ここコペンハーゲンで、デンマークで。


そう『ハムレット』。これはハムレット物語なのだ。ハムレットの名前は登場しない。しかし『ハムレット』の舞台となったエルシノア城についての言及はある。『ハムレット』において父親の亡霊は、死の真相を息子のハムレットに明かし、ハムレットに復讐するよう要求する。ただし妻でありハムレットの母であるガートルードには何も知らせるなといいふくめて。そして亡霊との出会いの後、ハムレットは、世間の目をあざむくために狂人のふりをすると宣言し、事実、そうするのだ。『コペンハーゲン』において、ボーアが命じたのか、ハイゼンベルクが言い出したのか、わからないが、ハイゼンベルクナチスの爆弾製造計画に協力するふりをして妨害することになった。そしてこのことはボーアの妻マルグレーテはもちろんのこと、世間に対しても、絶対に秘密にしなければならない。マルグレーテをだますために、二人は喧嘩別れをしたという演技をすることになる。衝突はなかった。むしろあれは偽装工作のひとつだった。そしてこう考えることで、ボーアとハイゼンベルクは先王ハムレットと王子ハムレットなる。そしてナチス=クローディアスに抵抗することにある。これがデンマーク解釈である。


しかしまた、決裂と衝突は、偽装工作どころか真実であったという可能性もある。この場合、どうするのか。戯曲をまるまるひとつ使っても、最後まで明かされなかった真相。そこまでして守り抜かねばならなかった真相。それは西洋では通常、同性愛である。ボーアとハイゼンベルク、このふたりは同性愛関係にあった。久しぶりに出会ったことで、どちらかが燃え上がった。だが片方はこれを拒否した。決裂である。怒りか傷心のあまり、ハイゼンベルクは去る。そしてこの出来事を糊塗するために、いくつもの真相ヴァージョンが練り上げられた。


ふたりの人間が、ふたりだけで出てゆく。おまえは残っていなさい、あるいは絶対に来てはいけないと言い残して。そのふたりで去ってゆく姿を見送るというのは、西洋あるいは近代家族にとって原型的光景かもしれない。これからセックスをするため寝室へ行く両親の後姿を見送る子ども。この場合、見送っているのはマルガレーテで、出てゆくのは両親でも恋人どおしてもなく、二人の男なのだが、この二人の男には、構造あるいは原型的光景の力によって性愛関係のオーラが漂っている。そしてもしこの不確定な解釈でも、それなりに有効性があるとすれば、このクィア解釈から、この三人組スリーサム物語にも新たな光を与えることができるのではないか。


というのも原爆あるいは原子物理学において何があったのか。衝突の原因がただ科学と政治にあるとすれば、この戯曲にマルグレーテは必要ない。しかし劇の最初から最後までいる彼女の存在は大きいし、彼女の存在を、たとえ無知を余儀なくされる傍観者としても意味づけることができなければ、この戯曲と遭遇した意味がない。弟子と先生とその奥さん。この三人組の関係を解きほぐすあるいはさらに錯綜させる一歩が、弟子と先生との同性愛的関係であろう。そしてそこからどのような深淵に導かれるかは、もうすこし時を置いて考えてみたい。


なおこの戯曲は、3月に日本でも再演されるが、イギリスのBBCがテレビ版を作成し、そのDVD(アメリカ版)を私は持っている。もちろん観た。アダプテーションなので、原作の台詞にはカットがあるが、ひとつの上演形態として、またテレビ映画ならではの、工夫もみられて興味深いものであった。DVDにはさらに解説がつき、作者のマイケル・フレインが多くを語り、またハイゼンベルクの子どもたちをはじめとして、現実の子孫や関係者へのインタヴューが収められている。けっこう長い。またしても解説が加わる。それはまた戯曲版に伏せられた解説にはない事項も含まれていて、興味深い。終わりなき解説が、この戯曲の宿命なのだろう。


出演はニールス・ボーアスティーヴン・レイStephen Rea:彼は、このブログに何度も登場しているように思う。翌日にも登場するだろう。2006年に『プルートーで朝食を』と『Vフォー・ヴェンデッタ』でスティーヴン・レイに出会った。ボーアの妻にはフランセスカ・アニスFrancesca Annis:なつかしいぞ。シェイクスピア学者にとって、彼女の存在は、ポランスキー版『マクベス』における若くて美しいマクベス夫人でしかない。その後、彼女を主役しにテレビドラマも作られた気がするが、私が『マクベス』の次に映画で彼女と出会ったのは、デイヴィッド・リンチ監督の『砂の惑星』だった。彼女の変貌振りに驚いたが、『コペンハーゲン』に登場する彼女は、『砂の惑星』の頃とあまり変わっていない*1。そしてハイゼンベルクダニエル・クレイグ。そう、007ジェイムズ・ボンドのダニエル・クレイグである。

*1:忘れていた。『リバティーン』にもジョニー・デップロチェスター伯爵の母親役で出ていた。ロザモンド・パイク、サマンサ・モートンといった女優陣の前にすこし影が薄かった。