パクリ問題つづき


ここのところ世間では、槇原敬之の歌詞が盗作であると松本零士(どちらも有名人なので、敬称略)が訴えた(訴訟ということではない)ことが話題になっているが、歌詞をみるかぎり、あきらかに槇原が盗作したとしか思えない。


槇原の歌詞:
「夢は時間を裏切らない/時間も夢を決して裏切らない」


は、意味不明である。「夢は時間を裏切らない」といきなり言われても、読む者には意味がわからない。


しかし次に「時間も夢を決して裏切らない」となると、ぼんやりとわかってくる。これは時間が夢を実現する媒体であり、長く辛抱していれば、あるいは長く頑張れば、いつか夢はかなうということである。つまり後半の歌詞は、夢はいつかかなうということである。簡単に言えば。


しかし夢は時間を裏切らないというのは、明日、資産家になりたいという夢があれば、明日の夜までに、あなたは大金持ちになっているということである。あるいは言い方をかえれば、私は「時間」さんに、明日、資産家になるという夢がありますから、あす資産家になりますと約束したのである。それじゃ、あなたの夢をかなえてあげましょうと「時間」さんが私の夢をかなえてくれたのである……。いやちがう、これは「時間」が私の夢を裏切らないということであり、夢が時間を裏切らないというときには、夢と時間とは別の存在であり、まじりあうことがないのである。明日という時間に、あなたは金持ちになると約束した。時間は、ただそれを待っている。なんにも関与しない。いっぽうあなたは、なにか奇跡を起こせるつてがあるか、犯罪行為でもして、明日の夜までに資産家になるよう努力するだけである。かりにそういう意味だとしたら、つぎの時間は夢を裏切らないと矛盾する。時間の積極的な関与と矛盾するわけだ。


一方、松本零士の歌詞をみてみる。


「時間は夢を裏切らない、夢も時間を裏切ってはならない」


これは前半は、夢はいつかかなうという意味である。しかし後半は、命令文である。夢も裏切ってはならいというのは、どうせ、いつかかなうのだから、なにもしなくていいという他力本願的なことではなく、自分で努力して、夢がかなうようにしないと、せっかく夢をかなえてくれる時間にもうしわけない」ということである。「いつか夢はかなう。ただし努力さえしていれば」あるいは「努力している人間の夢だけが、いつかかなう」というのが、この歌詞の意味。いいまわしは「夢」「時間」という抽象概念と、「裏切らない」という人間的な生々しさとを合体させているし、「裏切らない」といいながら、あとで「裏切ってはならない」と留保をつけている点で、ゆるやなか矛盾と同時に意味の明確化がおこなわれ、一見難解だが、意味はきわめて明確である。一見難解そうで、明確というのが印象に残る。


「夢は時間を裏切らない/時間も夢を決して裏切らない」ではちんぷんかんぷんである。先ほどの私の解釈は、苦し紛れのものであって、基本的にナンセンスである。せめて槇原の歌詞が「夢は時間を裏切ってはならない」ではじまったらまだしも、これでは、ただ夢をもっていれば、なにもしなくても自然に夢が実現する。世界中の人間が幸せになるという意味である。意味がない。馬鹿馬鹿しい。もしそうなら夢など持つ必要もない。


もし槇原がほんとうに盗作をしていないのなら、松本零士の歌詞とほとんど同じになるはずである。しかし盗作したからこそ、同じにするのはまずいと思い、順番の変えたとしか考えられない。それによって意味不明になった。もしほんとうにオリジナルなら、こんな意味不明の歌詞をつくるはずがない。いや詩だから、通常の言語感覚では割り切れないというかもしれない。しかし詩ほど一見不合理にみえて、合理的なものはないし、オリジナルであればあるほど合理的たらんとするものなのだ。


いやオリジナルなものがどうかというよりも、パクリというのは、オリジナルなもののアイデアを盗むのだが、同じだとまずいので、どこかを変えて、盗作の非難を浴びないようにする。それゆえ似ているけれども、盗作ではないと弁解できることが、盗作の根拠なのである。まったく同じだが、偶然の一致だと言えるのが、盗作ではないことの証拠である(たとえ多くの盗作者が、偶然の一致を理由に挙げるという例は多いかもしれないにしても)。


前回の墨攻というか、風林火山によるパクリがよい例である。『墨攻』のほうは、きわめて合理的に地下道攻めを説明している。NHKのドラマはそのアイデアをパクッただけで、細部はぐだぐだにしてごまかしている。まったく意味がない。もしオリジナルなものなら(ちなみに武田晴信にめしかかえられる前に、山本勘助が何をしていていたのか記録などないのだから)、もうすこし細部を煮詰めるからである。偶然の一致が起こるほどに。