ノアの泥酔


聖書の創世記におけるノアの泥酔のエピソードに、いつも違和感を覚えていた。洪水のあと、ノアは農夫となって始めて葡萄を栽培する。そして葡萄から作った酒を飲むと酔いがまわり裸で寝てしまう。その裸体を、ノアの息子ハムに見られてしまう。ハムは兄たちセムヤペテに父親が裸で寝ていることを報告する。セムヤペテは、肩に衣服をかけ、後ろ向きに(父親の裸体をみないように)歩いてゆき、父親の体にその衣服をかける。目が覚めたノアは、末っ子の息子が自分の裸体を見たことを知り、激怒。ハムの子孫はみんなセムヤペテの奴隷になるのだと呪う。


創世記の本文をみてみよう:

さて、ノアは農夫となり、ぶどう畑を作った。あるとき、ノアはぶどう酒を飲んで酔い、天幕の中で裸になっていた。カナンの父ハムは、自分の父の裸を見て、外にいた二人の兄弟に告げた。セムとヤフェトは着物をとって自分たちの肩に掛け、後ろ向きに歩いて行き、父の裸を覆った。二人は顔を背けたままで、父の裸を見なかった。ノアは酔いからさめると、末の息子のしたことを知り、こう言った。
「カナンは呪われよ、
奴隷の奴隷となり、兄たちに仕えよ。」
また言った。
セムの神、主をたたえよ。
カナンはセムの奴隷となれ。
神がヤフェトの土地を広げ
セムの天幕に住まわせ
カナンはその奴隷となれ。」
新共同訳 創世記 9.20-27

どうだろう。ノアの激怒をみると、父親の裸体を見るのは、ぶしつけなこと、いやそれ以上に、父親への侮蔑的行為だということがわかる。これは洋の東西を問わず、理解できることかもしれない。しかし、にもかかわらず、父親がどれほど敬まわれていても、その裸体を見たからといって、子々孫々、奴隷の運命が待っているというのは、犯行の割に刑罰が重すぎはしないだろうか。


岩波文庫の『創世記』では、訳者の関根正雄は

「裸」についてはイスラエル人はギリシア人などと違い、強い羞恥心をもっていた。

と述べている*1


そうだとしても、それで当人の子どもたちが奴隷にされるというのは、厳しすぎる呪いではないだろうか。


ミケランジェロのシスティナ大聖堂の天井画にも描かれているエピソードに困惑したのは私だけではない。本日、読んだ、ある論文によれば、中世のユダヤ教徒はこのエピソードを、こう解釈していたという。すなわち泥酔しているノアをみたハムは、ノアをレイプする。そしてレイプしたあとノアを去勢した。すなわちノアのペニスを切り取ったのである。


この解釈はキリスト教徒にも伝播した。実際、目覚めたノアが、自分の股間をさわって、なくなったペニスに気付いたというような絵も残っているらしい。そういえば創世記の記述もおかしい。ハムの報告をうけたセムヤペテは、父親の裸体を見ないようにして、衣服を裸体に掛けたと記述すればいいのに、「セムとヤフェトは着物をとって自分たちの肩に掛け、後ろ向きに歩いて行き、父の裸を覆った」とある。記述が具体的でいいのかもしれないが、なにやら変な記述法でもある。しかもこの動作は後ろから相手を攻める肛門性交を思い浮かばせる。


ミケランジェロの絵画をみてみよう。よくわからないのだが右端にいる二人は肩に衣のようなものをかけているからセムヤペテなのだろう。しかし、その論文の指摘によれば、どちらかが後ろから抱きかかえるようなかたちになっていて、これは男性同士の性行為を思わせる。おお、クィアミケランジェロ!(まあミケランジェロが同性愛者であったことは有名だが)。つまりこの絵は、ノアがハムにレイプされたことを、暗示しているのである。


しかし神はノアに「産めよ、増えよ、地に満ちよ」(創世記9.1)と言ったのではないか。その神がノアに去勢の試練を与えるとは!しかし創世記によればノアは950歳まで生きる(創世記9.29)のだが、子どもはセム、ハム、ヤペテの三人である。やはりノアは去勢されたのか。


この去勢説はキリスト教徒側によって、こう解釈されて。ノアはイエス・キリストの原型である。ユダヤ人がイエスを殺したのと同様、ハムはノアを辱めた。ノア=イエス。ハム=ユダヤ人。力点はユダヤ人の悪魔化である。


だがこの解釈が大航海時代と植民地拡張運動期には、力点がハム=ユダヤ人から、ハム=アフリカ人→奴隷の運命へと移行する。それはたとえばアフリカ人の肌の色が黒のを、気候のせいにするという当時の有力なclimate theoryに対して、たしかに白人もアフリカに行くと肌の色が黒くなるが、ふたたびヨーロッパに戻ると肌の色が白くなるのに対し、アフリカ人はヨーロッパにおいても肌の色が黒いままであるという反証のもとに、アフリカ人の肌の黒さを人種的なものとし、彼らは奴隷となるべく運命づけられるとして、聖書の文言が植民地正当化のために使われたのである。


ちなみにエリザベス時代に、アフリカ人=奴隷運命説への変換を行なったとしてGeorge Bestの言説を重視する論文は、Jordanの本におけるBestの扱い方に異を唱えていた。Jordanの本は持っているが、読もう読もうと思って、いまにいたるも読んだことはない。そこでその本を引っ張り出して、Bestに関する奇術を読もうとして、それはすぐにみつかった。なぜなら私がその本にアンダーラインを伏して、マージンにGeorge Bestと書き込みをしていた。私はその本を読んでいたのだ。私にとって、ノアがレイプされた説よりも、この私の記憶喪失のほうが衝撃的だった。

*1:ちなみに今回の記事を書くために、岩波文庫版『創世記』を買ってきた。そして気がついた。いま私の右手の本棚に同じ『創世記』が並んでいることを。買っていたのに気付かなかった