神社一題


Aさま


私たちの母方の祖母、つまり母の母は、
山口県防府市の藤井家の出身だと
いうことでしたよね。


それはまちがいなのですが、
この藤井家というのは、
防府天満宮の大行司(宮司ではなく)の家なのです。
以下、防府天満宮のサイトから、
昨年御神幸祭を解説記述したものを引用します。
行替えなどを行なったので、レイアウトは異なりますが
内容はいじっていません。

平成18年御神幸祭(裸坊祭)防府天神祭神幸祭(裸坊祭)を斎行御神幸祭の由来について


一条天皇の寛弘元年十月に初めて北野の菅廟に行幸され、此月の十五日に当地へ 勅使をお差遣えになりました。この時、大・小行司が御神幸の供奉に列してより常典 となりました。


二条天皇は、平治元年に周防国を御白河上皇の領国となされました。


その頃、都は騒々して源平の戦(保元・平治の乱)も起こり、朝廷にも事多く承安元年より勅使は止んで、周防の国司に仰せられて祭典がおこなわれました。


その時奉仕した大,小行司の家筋は其のまま伝わっております。毎年の御神幸には 欠くることなく供奉してこられ、今に至るまでその同族以外の者が之に奉仕するこ とは許されておりません。


神幸祭は菅公が当地へお立寄りの時、送迎をなしたるに起因してその儀式を今に伝えるものです。御神幸祭即ち御旅所はその際の遺跡で、今でもそこで浜殿奉行と云う役が当時の饗応になぞらえて供膳の儀を奉仕しています。


裸坊の供奉は、江戸時代中期より、特に崇敬の念あつい信徒達が、身心の穢れを清 め真に清浄潔白になる意味から寒中水垢離をとり裸体となり、僅かに白木綿を身に まとい供奉する者が逐年増加し、勇壮な祭典として、その裸坊祭の勇名は中国地区 をはじめ広く全国に知られるようになりました。


近年に入り、裸坊は白シャツ等を用い白装する様になりました。


防府天神祭神幸祭が行なわれるには、様々な諸神事がおこなわれており、それら の総称として防府天神祭といい、狭い意味では、御神幸祭(裸坊祭)のことを天神 とも称しています。


大行司・小行司


菅公が防府の地へお立ち寄りの際、国司と共に送迎した国庁の庁吏の末裔 が今の大行司(藤井家)、小行司(清水家)といわれております。防府天神 祭の一連の神事はこの人達を中心に供奉されます。

ということですよね。


ポイントは「その頃、都は騒々して源平の戦(保元・平治の乱)も起こり、朝廷にも事多く承安元年より勅使は止んで、周防の国司に仰せられて祭典がおこなわれました。その時奉仕した大,小行司の家筋は其のまま伝わっております。毎年の御神幸には 欠くることなく供奉してこられ、今に至るまでその同族以外の者が之に奉仕するこ とは許されておりません。」ということです。その藤井家から内田家にとついだのが、私たちの母親の母親ということになります。


伯母なんかが、うちは家柄がいいという自慢をしていましたよね。


母の実家は農家です*1
だから家柄良いも悪いもない。
とすれば西の方の人たちにとって、
「家柄がいい」というのは、「部落民ではない」ということの、
差別的暗号の可能性が高く、
嫌な感じがしていて、そのことを注意しても、
高齢だからまったく聞き分けがなかったことを
記憶しています。


しかしそうではなく、つまり暗号ではなく、
大行司につながる家だったという
自慢だったのですね。


と同時に、
私たちがこのことに気付いたのは
ごく最近だということです。


まあつまり大行司の家とは、
どこかで血のつながりがあっても、
意識のうえでは、また実生活や
仕事の上では、
全くつながりがないことの、
証明みたいになってしまいましたが。


一度、防府天満宮に参ってください。
お母さんと、あなたとふたりで行ったことがある?
なるほど。
まあ学問の神様だから、これから受験をひかけている
娘にもご利益があるかも。


そういえば、防府天満宮は雷除けのご利益もあるそうな。
また牛とも関係しているらしい。


牛?

*1:防府市の海岸沿いにあるその地域は、農家と漁師の家とが混在していた。私の母は農家の娘だったのだが、小学校では漁師の家の子といっしょに学んだという。母によれば、あきらかに漁師の家の子どものほうが、農家の子どもたちより頭が良かったという。おそるべきDHAのパワー。魚に含まれているドコサヘキサ塩酸に頭を良くする働きがあるという説を知ったとき、母、それはほんとうだろうと、子供の頃のことを思い出して、実感したと語っていた。