Theatre


久しぶりにサマセット・モームの長編小説を読んんだ。しかも翻訳で。『劇場』Theatre龍口直太郎訳(新潮文庫)。翻訳でモームの小説を読むのは、何年ぶりのことだろう。10代の頃には読んだが、それ以来、読んだことはない。


私の学生というか、受験生の頃は、モームの英語がだんだん読まれなくなった時期にあたっていた。それまでは、大学受験の英語にモームの文章がよく出題されていた。今では考えらないことだが、モームの文章だけを使った、英文解釈の参考書というか問題集が、売られていたと記憶する。さすがに私が受験する頃は、もうモームからは出題されなかったが、高校での英語の問題にはモームの文章が出題されたことがある。


いまからふりかえるとなぜモームなのか、よくわからない。英語がわかりやすいからなのか。平易で癖がないからか。英文科の教師になってからは、時々、モームで卒論を書く学生がいて、卒論のなかで引用されているモームの文章を読むのだが、その英語が、なんだかひどい。美しくもなければ、これもいやな言い方がだが、品もない。なんだか下品な英語なのだ。下品といっても、方言とか俗語が多い小説の英語は、それはそれで、りっぱな文学表現になっていて好きなのだが、そういう世俗性ではなく、とにかく下品なのだ。難解な文学的文章は受験の英語としては論外としても、もう少し美しかったり、理路整然としたり、表現は平易でも論理が複雑だったり、受験英語にふさわしい文章表現はいくらでもありそうなのに。よりにもよって、モームとは。


また10代の頃、私はモームの小説はよく読んだ。とはいえ10代の少年が読んで感動できるのは、ビルドゥングスロマン教養小説)である『人間の絆』くらいで、あとは、面白いと思っても、なんだか皮肉な話とか冷たい話が多くて、感動的な話は皆無だった。翻訳で読むと、よく「俗物」という表現がでてきたが、「俗物」なるものがどういう意味なのか、10代の私は、前後関係からも推測しがたかったことを憶えている。いずれにせよ、彼の文章が受験英語に選ばれるというのも不思議な話だった。


『劇場』を翻訳で読んだのは、イシュトヴァン・サボーの映画『華麗なる恋の舞台で』(日本語タイトル、英語タイトルBeing Julia)を渋谷の東急文化村で公開していたからである。先月、オムニバス映画『夢十夜』の映画を見た帰りに、渋谷の東急デパートに、その映画の垂れ幕がかかっているのをみて、まだ観ていないことを痛感し、観るまえに原作を読んでおこうとおもったのだ(あの頃は、まだ元気だった)。


イシュロヴァン・サボーIstovan Szabo 1938-:ハンガリー出身のこの監督について、知らない人も多いかもしれないが、私にとっては古くから見ている監督である。サボーが世界的にブレイクしたのは『メフィスト』Mephsito(1981)という、ナチスに利用されたドイツの俳優を主人公にした映画で、これに主演したクラウス・マリア・ブランダウワーもまた世界的スターになった(なんといっても私の好きな映画『ロシア・ハウス』での脇役もまた、印象的だったが)。


メフィスト』は日本での公開時、映画館で見たことがある。その時、映画の字幕を担当されたのが高名なドイツ文学者(のちに私は同じ大学で同僚になったのだが)だったが、とにかく字幕の分量が多かった。現在、映画の字幕は2行だが、忘れもしないその映画、縦書きの字幕で3行か4行くらいあって、字幕読むだけで、へとへとに疲れたことを憶えている。


あとサヴォーの映画では『サンシャイン』という3時間か4時間くらいの映画があって、これも印象的であった。『ナイロビの蜂』でレイフ・ファインズレイチェル・ワイズ(本当はヴァイスと発音)が共演したとき、なんとなく既視感があったのは、ふたりは『サンシャイン』で共演していたからであった。


サマセット・モームモームの『劇場』という小説は、聞いたこともなかったが、それは私の無知で、すでに日本でも古くから翻訳されていた。女優を主人公に、大戦間のロンドンの演劇界での物語は、演劇史が専門の私には、きわめて興味深い。龍口直太郎訳は問題はないのだが、さすがにアメリカ文学の専門家がイギリスのことを訳すと、時々、固有名詞に違和感がある。「国民美術館」と「ナショナル画廊」というのが出てくる。同じ施設であることを、イギリスのことをよく知らない読者が理解するのはむつかしい。『ロミオとジュリエット』が「ロメオ」となっている。とはえいそれらは瑕疵であって、全体の訳文に影響することはない。


演劇研究家としては、最後のほうで舞台に上演されるのがアーサー・ピネロの『第二のタンカリー夫人』の翻案ということなので、有名な作品だが(ピネロはいまでは日本では読まれたり上演されることはないだろうが)、読んでいなかった。まあ、とんだ演劇研究家だが、さらにいうと本も持っていない。昔、オックスフォードのワールドクラシックのぺ−パーバックでピネロの作品集が出ていたが、買っていたかどうかも、わからない。まあ、これから買おうとしても絶版だろうなと思ったが……*1

小説そのものには、主人公の中年女性が、ろくでもない若い男に、騙されていると知りながら、熱を上げて、翻弄されダメになってゆく過程が延々と書いてあって、私の一番嫌いなパタンの小説で、めげそうになった。さっさとこの恋を切り上げろといいたくなるのは私だけかもしれない。恋の病に陥ったら、騙されていても、相手がダメな人間でも、なかなか忘れることができないと、したり顔でいうなかれ。人間、合理的な行動だけで生きているわけではない、と、これまたしたり顔でいうなかれ。失恋することに快感を覚えるマゾヒズムこそ、ナルシズムの裏返しだし、恋が不合理な情熱ということは、いまどき理性と感情を分離して考えている愚劣な合理思考にすぎない。


たしかにモームが描きたがるのは、たてえばダメ男やダメ女に捨てられても騙されても相手のことが忘れられない愚か者たちである。その典型は『人間の絆』で医学生になった主人公が、ロンドンの娼婦のことを忘れられずに悶々とするところであろう。それは小説全体のかなりの分量におよぶ。その長さとくどさが、おそらく私のトラウマになっていたのではないかと、今回、モームの『劇場』を読んであらためて認識した。トラウマの原因となった作家に、いままためぐり合った。助けてくれといいたくなったが、がまんして読んでいけば、それも破滅的な恋のエピソードもいつしか終わった。


龍口直太郎の翻訳は、翻訳以上に解説が充実していて、読み応えがある。すくなくともこれが翻訳出版された当時なら、私はむさぼり読んでいただろう。しかし今の時点では、意味がない。解説ではモームが中年女性を主人公にするのが特異だとある。それはそうなのだが、そこにディーヴァ好きのゲイ美学があることをまったく理解していない。解説で触れられている愛の問題も、ゲイ問題というふるいにかけない限りいまとなっては、どうでもいいものだ。


今回、このモームの作品を読んでみて、そこに横溢するゲイ美学にあらためて感銘を受けた。大女優で、若い燕をかこって自ら堕落寸前にまで行きながらも立ち直り、ものの見事に意趣返しをして女神として舞台に再び君臨するにいたる主人公こそ、ディーヴァと呼ぶにふさわしい。彼女の盲目的な恋−−つねに暫定的で、はかなく消滅の可能性におびえながら、傷つくことはわかっていても求めずにはいられない、そしていったん手に入れた恋は、どうしても手放したくないまま、悶々とした日々をすごすこと。ここにある恋の規範は、異性愛ではなく同性愛である。中年の女性が、一時の過ちで若い男と浮気して悩むというパタンよりも、アレキサンドリアで電車の車掌の男と恋に落ちるE・M・フォースターのパタンのほうが、ぴったりくる。

ュリアは、けちな若者との恋をラシーヌの悲劇『フョードル』の主人公とイポリトとの関係になぞらえる。だがそれはちがうと、多くの読者は感ずるだろうが、ポイントは、道ならぬ恋に悶々とするラシーヌ劇の主人公たちの姿は、性的に解放された現代の異性関係においては、およそ古臭いものにすぎないということ、むしろ同性愛こそ、現代においてもなお道ならぬ恋としての資格を失っていないこと。ラシーヌの恋愛悲劇は、同性愛をめぐる悲劇に通底するということだ。モームはそれを知っている。


あるいは『劇場』において、ただの馬鹿と思っていた息子が、ドイツ留学から帰ってくると、辛辣な洞察力と潔癖さをかねそなえた一人前の青年なっていて、母親の女優人生を、真実はどこにあるのかと批判するエピソード。ここに『ハムレット』との類似性をみる解釈もあるようだが、それはモーム自身、計算済みであろう。モームがみているのはハムレットとガートルードとの関係において、ガートルードが天真爛漫なディーヴァ的人物であるということである。『ハムレット』において、ハムレットは女優ガートルードを嫌うが、やがて彼女に演技指導するまでになる。『劇場』において萌芽的にあわれるのは、女優である母を嫌いながらも、いつしかその母にひかれてゆく未来のハムレットなのである。


さらにこの小説『劇場』からは、予想できることだが、人生のすべて、日常生活の細部までが演技と演劇のなかに吸収されてゆくことだ。主人公の発言は、どれも彼女がこれまで演じてきた芝居のなかの台詞に聞こえてくる。本物と演技する自己との乖離。ここにあるのはドラッグ・クィーンの美学である。主人公の女優は、女性を、あるいは女優を演じている。それならば彼女は男性であってもいいことになる。ジェンダーと徹底して戯れ、すべてが演技にすぎないことを暴露する演技者の攻撃的美学なのである。


もちろん作品そのものは、もう少し、巧妙に繊細に、本物と偽物との関係を定義している。現実世界を模倣し演ずることで、現実の影にすぎない俳優たちだが、実は、現実の人々こそ、影のごときカオス的存在であり、そこに秩序と意味とイメージとをあたえた俳優こそが、現実であり真実であるという逆転が生ずるとき、この小説は閉じられる。それはまた現実の人々が意識せずにおこなうパフォーマティヴィティと、俳優たちの意識的パフォーマンスとの対比のなかで、現実の人々を真実に、つまり人生はパフォーマンスであるという真実に目覚めさせるために、俳優たちの虚が、パフォーマンスがあることを、あらためて思い知ることができる。さらにいえば、私たちが真実の自己にとらわれることなく、すべてが演技であるまでに自己を解放し解体するときに、はじめて真実があらわれる。その時こそが無敵の人間になるのではないかと、そう思われた。理解力の遅さを取りえに、このことを考えてみよう。

結局、映画館には行ったのかという話になるが、病気の身なので、渋谷の文化村まで出向くのはつらい。また気がつくと、この映画のDVDをすでにアメリカから買っていた。ということで、自宅でDVD鑑賞となった。映画は1時間40分とやや短く、長編小説の要約という感じしかしなかったが、原作を読まずに比較することのない観客には、それになりに面白かったかもしれない。

アネット・ベニングケヴィン・コスナー監督の西部劇『ワイルド・レンジ』に出演していた頃、ずいぶん老けたと思ったが、彼女は私よりも若い。私としては彼女の演技に及第点を与えたいが、イシュトヴァン・サボーの映画としてはやや物足りなさが残った。

*1:その後古本で手に入れた。