ガイダンス


本日はガイダンスの日。英文科は午前中が大学院生、午後が学部生のガイダンスがあった。すでに学部/大学院全体レヴェルでのガイダンスは終わっているので、本日は、各研究室に分かれてのガイダンスである。そして年々、この日は気が重くなる。とくに英文科の学部のガイダンスは。


日本人は、謙遜するから、そのまま真に受けるを馬鹿をみることもある。また謙遜というのは、ある意味で、陰湿な暴力性ももっているから、怖い面もある。しかし、「つまらないものですが」といって贈り物をする日本の習慣は理解できないこともない。「つまらないものならば、贈るな」という理屈は、ギャグとして面白いが、慣習においてそれが正しいとは限らない。立派なものを贈られたら、誰でも困る。いやそもそも、贈与というのは、贈る側と贈られる側に暴力的なヒエラルキーを構成する危険な行為なのだ。このことはデリダの議論にまで及んでいることもあり、「つまらないもの」というのは、贈与に伴う暴力性を緩和する役割がある。


同じく、私は馬鹿で理解力が乏しいという謙遜は、自分の側に逃げを用意すると同時に、教師の側に負担をかけない配慮でもあるだろう。逆に、「私はIQ200だから、それにふさわしい知的刺激のある授業をし、またそれにふさわしい多量かつ高度の情報をよこせ」と、学生が要求してきたら、IQ100にも満たないような私のよう教師は困ってしまうし、おびえてしまう。逃げ出したくなる、うつ病になるかもしれない。そして、そんなふうに豪語した学生が、意外に馬鹿な間違いをしたり、無知だったりすると、逆に、よくもまあ自慢してくれたものだこの馬鹿野郎と、とことんいじめてやろうと思ったりするだろうから、まあ、仮にIQ200であることを知っている学生でも、私は馬鹿だからと謙遜しておいたほうが、円滑な学生生活や社会生活が送れるだろう。


「英語で落第点をとったことのある私が、英文科にくるなんて」と自己紹介する学生がいた。謙遜というよりも、嘘は言っていないだろう。まわ私自身、学部学生時代に、英語関係の科目で落第点をとって履修しなおしことがあるので(とはいえ一科目だけだが)、理由は何であれ、英文科の学生でも英語の落第点をとることもある。


しかし、「私は〜が不得意だから」という言い方をする学生が年々増えてきている。「〜」の部分には、数学とか、人前で話すとか、人付き合いとか、料理とかいうのではなくて、英文関係のことである。「英語を話すのが苦手」とか「英語を書くのが苦手」とか。ただしこのくらいは謙遜の範囲(謙遜ではないかもしれないが)で許しておこう。話すこと書くことに自信がある学生は少ない。謙遜しておくにこしたことはない。ところが、これが嫌なことだが、年々、「英語が不得意だから」という学生が増えている。


一昔前までは「英文学、米文学、英語学のことなど、なにも興味も湧かないし、なにも知らないが、ただ英語が好きだから英文科に来ました」という学生がいっぱいいて、困ったものだと思っていたが(これはおそらくどの大学の英文科でも事情は同じだろう)、いまになってみれば、それはまだしもよくて、英語が不得意で好きですらない学生が、英文科に入ってくるのである。


もちろんこれには事情があって、一般教育の課程と専門課程を分けている、この大学では、一年生のうちから専門が選べないから、入学して、この専門に来るんじゃなかったと後悔はしないぶん、希望する専門に行けないこともあり、専門が決まった時点で、もうやる気をなくしてしまう学生も多い。英文科も人気が急落して、いまや、他の専門を希望しても、どこにも行けない学生のはきだめになっていることはわかる。来たくもなかった専門のコースに入ったのだから、英語が不得意でもしかたないかもしれない(ただし英語が不得意だから英文科に来るという理由には、もっとべつの傲慢で不埒な理由も存在することがあるが、それはいまは触れないでおく)。


本日、一番むかついたのは、最後のほうで自己紹介した馬鹿学生の「それではみなさんノートを見せあいながら仲良く協力しあいましょう」という、本人はお茶目ぶっている発言だった。


まあ大学の授業がすべて楽しいわけではない。またいやいやながらとらねばならない必修の授業も多い。とりわけ一般教育科目の授業がそれで、そのため1年生のときから専門科目を入れて一般教育科目を減らしたり、魅力ある一般教育科目を工夫したりと、さまざまな試みが行なわれている(ちなみにいまの学生は卒業するときになって、ふりかえれば一般教育科目をもっとしっかり勉強しておけばよかったと後悔するらしいが)。まあ、そんなだから、私も学生時代には、いまの大学とは制度など違うにしても、一般教育科目は、ノートを写させてもらったりしたことはある。しかし専門科目では、そういうことはない。いや専門科目といっても幅が広いから、なかにはノートを写させてもらった授業はあるにはあったが、そんな授業がたくさんあるわけではない。


ということは「ノートを見せあう」というのは、専門課程では、基本的にありえないことだ。みずから選択して専門課程を選んだのだから、適当に授業をこなすということはしない。また実際、専門課程の授業はノートを見せ合っていれば、単位がとれるような授業はない。そもそも評価が甘いから、ノートを見せ合わなくても単位はとれるし、ノートを見せ合うというのは一般教育課程のときの話で、専門の授業にノートは関係ない。


つまりは「専門課程に来たくもなかった。みんなも同じだろう。だからノート見せ合いながら、なんとかこの苦行をがまんして、卒業しましょう」と、全員を共犯関係にまきこんでいるわけだ。傲慢にも。


しかし、考えてみてもても、あぜんとする。私の勤めている大学は、そこに入ろうと、なかには小学校の頃から、しゃにむに頑張っている親子もいるのだが、あるいはそこに入れなかったからといって、悔しい思いをしている親子も多いようなのだが、どちらの親子にも、これが実態なのだというしかない。そう、人一倍努力して、才能と学力を磨き、入ってきたら、専門課程で、ノートを見せ合いましょうと、いう学生に遭遇したり、みずからそういうことを口にしたりする学生になったりする……。なんたる堕落。腐りきっていなか。あなたはこんな屑がいる大学に入りたいのか。いや英文科がはきだめなのははいい。はきだめでも、自負と誇りはある。それがこのていたたらくとは。いや、はきだめであっても、そういう腐った学生を生じさせる大学に、あなたは子供を入れようとしているのか。


コーダ
今年は、別の学科にもかかわることになったので(まあ、その準備段階で、疲労が蓄積して病気になったのだが)、そこのガイダンスにも顔をだしたのだが、比較文学的なコース(非楽文学そのものではない)に進学してくる学生たちは、自己紹介をさせても、自分の興味がある分野を語り、勉強していることがよくわかった(軽薄そうな学生もいたが、英文科のそれには負ける)。また英文科に進学する学生のなかにも、英文科の学生になることを目指してこの大学にはいったので、いまこうしてなれたのは夢が実現して感慨深いと語った学生もひとりいた。べつに教師をよろこばせようとして、そう言っているのではないだろうし、また教師を騙そうとしているようにもみえなかったが、たてまえとしては、全員か、ほぼ全員がそうで、なかにいやいや入ってきた学生がいるというのが、20世紀までの英文科のありかただった。21世紀になると、苦行でしかない学生ばかりだ。