ウェリントン


最後は、忘却ネタ。中高年の悲哀だが。


昨年10月岩波書店より、ロバート・ウェストール『ブラッカムの爆撃機』(金原端人訳)が出版(復刊というべきか)された。もともと福武書店より出版されていたものを、宮崎駿のカラー漫画「タインマスへの旅」を付して再版したもので、定評ある金原訳と宮崎駿のイラストがあいまってなかなか楽しい本(とはいえ内容は暗いのだが)となった。


ロバート・ウェストールについてはよく知らないないが、児童文学でありながら、戦争を扱っている(戦争物しか書かない)ところになんとなく違和感があった。そのへんの違和感は宮崎駿にもあったらしいく、ウェストールの足跡をもとめてイギリス各地を点々とする幻想旅行にもそれが滲み出ている(このカラー漫画は、実に良くて、『ゲド戦記』で息子に殺されたはずの宮崎駿は、まだ生きていたことがわかり、昨年10月に私は感動していた。ちなみに私が10月に発売直後に買ったこの本は、すでに二刷りだった)。


もちろん、その違和感は宮崎駿のアニメにもいえて、『風の谷のナウシカ』あたりから、その兵器に対するフェティシズム的なこだわりは、つとに指摘されてきた。ただの戦争メカ好きのオタクじゃないか、というわけで。そのためウェストールという先達を通して、戦争を拒否するという自らの立場を、確認しているところがある――敵も味方も犠牲にしてゆく、もはや加害者も被害者もない、戦争メカニズムの非情さ不条理をテーマとするからには、加害者の立場の理解も重要で、そこから戦争とその細部への理解が必要になるというわけだ。


ウェストールの表題作は、怪談話であり、戦争が超常現象と結びついてる。死をもたらし、またみずから死にさらされる戦争において、死後の生、幽霊、憑依、テレパシー、その他もろもろの超常現象は当然の同伴者かもしれない。ところが戦争の表象において、このストレートな同伴者は、かつてあったかもしれないが、いまではなくなったか、省みられなくなっている。戦争という現実の事件についての表象は、現実の記憶として見られなくなった。また現代においても、イギリスの子供が湾岸戦争の悲惨さにテレパシーとか夢とか憑依を通して感染してゆくという設定にしても(『弟の戦争』(原田勝訳、徳間書店,1995)この日本語訳のタイトルは、原題のGulf(湾岸)よりも、よいと思うが、副題くらいには「湾岸戦争」のフレーズを入れて欲しかった)、これらは戦争の表象として、超常現象の復権あるいは新たな可能性を示唆しているのかもしれない。戦争と幽霊。これはもう少し考える必要があろう。


いっぽう宮崎駿アニメでは空を飛ぶ機械(おおむね兵器だが)に対する偏愛ぶりが目に付く。いやそれは、戦争とか兵器というコンテクストを越えて純粋にメカとしての興味をといえるかもしれない。コンテクストを離れたメカとしての戦争兵器の面白さ――実用性とか効率の点から戦争では使用されなかったが、形態の面白い兵器というのはたくさんある。だが、兵器が、戦争において活躍が賞賛されたり、愛好の対象であったり、憎しみの対象であったことが、その兵器のメカのとしての魅力に貢献することも否定できない。となると純粋な機械的形状の魅力と、戦争というコンテクストにおける意味づけ、そのせめぎあいのなかに、「メカとしての面白さ」があるのだろう(空を飛ぶ戦争兵器が廃墟=楽園となったラピュタは宮崎アニメの理想郷かもしれない)。


とはいえ戦争メカのことについて興味をもたなくても、そもそも知らなくても、戦争について、その愚劣さを批判し、戦争反対を主張することはできる。戦争兵器オタクじゃないと平和を語るなというのは、まったく意味をなさない愚論である。だが、もうひとつの愚論もある。戦争兵器について何も知らなくても好戦的主張ができる。さらにいえば戦争を賛美する者は、戦争メカを賛美できない。戦争映画で、この銃がかっこいいとか、あの戦車は敵ながら惚れ惚れするという人物は、皆無ではないが、しかし登場するときは、変人か愚人である。彼らは戦争のディスクールにふさわしくない者として排除の対象になる。兵器マニアは加害者の側からも疎まれるのである。


ちなみに兵器オタクがかなり重要な役で登場する戦争映画を知っているだろうか。映画『太陽の帝国』の主人公ジム少年は、兵器オタクである。脚本のトム・ストッパード、監督のスピルヴァーグは、その毒を可能な限り減らそうとしているが、J・G・バラードの原作のもつ毒は解毒しきれていない。もちろん原作でも、まあ判断力を欠いた子供の考えることだからという理由づけはあるにしても、そこに、戦争に反対するわけでも、戦争に賛成するわけでもない異次元が出来する。


だんだん話が重くなってきた。戦争の持つ崇高の美学というのは存在する。原爆のキノコ雲の終末的光景に興奮したり、兵器の非日常性に感動する崇高の美学を否定するのは、その兵器で殺されて異行く生身の人間の存在であろう。だが悲惨さは、容易に崇高性へと転化する。崇高性の美学に回収されないのは、戯れの美学であろう。もちろん危険性はついてまわる。だが戯れの美学は、その無道徳ぶりゆえに、趣味の問題とさげすまれるがゆえに、どこにも回収されないまま彷徨する。彷徨、それは平和主義にも軍国主義にも使い道がなさそうにみえるからだ。だがそれゆえ、うまくいけば、平和主義にも軍国主義にも、どちらにも潜む観念論を否定する。強いていえば、兵器のことを知りすぎるのは軍国主義にはふさわしくないかもしれないが、皮肉なことに、平和主義には貢献できるかもしれないからだ。


蛇の目の軍用機(ああこの言い方は兵器オタクのそれで、英国の航空機が機体につけている円形の国籍識別マークが、蛇の目に似ているからこういうのだが)について。「ブラッカムの爆撃機」のブラッカムとは登場人物の名前で爆撃機とは関係がない。この作品に登場する爆撃機はヴィカース社製のウェリントンMkIII爆撃機である。そしてこの時点で、この作品を昨年10月にはじめて読んだ時点で私は、中国のプラモデルメーカーであるトランペッター社が発売したウェリントンMkICを購入していたのだ(1/48のモデルで、価格は1万円を超えた)。


トランペッターが1/48のスケールで、ウェリントンMkIC(MkはMarkの略。「マーク」と読む)の発売を予告してから、驚きまた期待に胸躍らせてその発売を待っていた私は、こんなマイナーな機体がスケールモデル化されるなんて、いい時代になったものだ。トランペッターすごいと喜んだものだ。そして発売されるとすぐに購入した(実は1/72スケールでは、近年モデル化されていて、さらに昔にもモデル化されていることをあとで知った)。


第二次大戦中に活躍したイギリス、ヴィカース社製の「ウェリントン」中型爆撃機については、宮崎駿がその本のなかに図解まで載せて説明しているのだが、双発の爆撃機で、大圏構造という特徴を持った航空機だった。大圏構造の飛行機とは、ジュラルミンの枠で竹かごのようなものを作ったと考えればいい。ツェッペリン飛行船は大圏構造の代表作でもある。この枠組みを布(羽布)で覆った。つまり金属製の機体でないのだ。大圏構造は、軽くて丈夫なものらしいが、羽布張りの航空機はいやだ。絶対に乗るのはいやだ。そんな怖い飛行機に乗れるか!


ここで脱線。翻訳者の「金原瑞人の訳者あとがき大全(4)」というサイトのなかに、旧版の『ブラッカム』の訳者あとがきがある。ちょっと変なので一言。


まずあとがきをそのまま再録(と思うのだが)するにあたって、イントロをつけている。以下のごとく:

『ブラッカム』の翻訳にあたってはずいぶん戦闘機に詳しくなった。イギリスは日本と同じで資源にとぼしく、布張りの爆撃機のみならず、木製の戦闘機も作られたとか。あるいは燃料タンクがゴム製になったいきさつとか……とにかく、こういうのを調べていると楽しくてどんどん深入りしてしまう。チャスじゃないけど、戦闘機、軍艦、潜水艦、銃器などの話になると、妙に血が騒いでしまう。このあたりは女性と男性の違いなのかもしれない。だって銃器マニアとかって、圧倒的に男性が多い。最近女性の翻訳家がずいぶん多くなってきたけど、ハードボイルドなんかは、その手の話が好きな男性が訳したほうが絶対にいいと思う。

よけいなことをいうんじゃないよ、この馬鹿。くだらない保守的なジェンダー観を書きやがって。


その前に、「戦闘機に詳しくなった」というが、ここでは「戦闘機」というのを「軍用機」の意味で使っているので誤用。そもそも爆撃機の話なので、戦闘機について調べてもほとんど意味がない。で、「イギリスは日本と同じで資源にとぼしく、布張りの爆撃機のみならず、木製の戦闘機も作られたとか」と書いているが、アホかお前は。昔の軍用機は、みんな羽布張り。また金属製の軍用機が主流になった時期でも、動翼は羽布張りであった。べつにイギリスが貧しかったからではありません*1。木製の戦闘機というのは、イギリスが当時世界にほこったデハビランド「モスキート」のことだろうが、これも双発で二人乗りの画期的な軽量高速の軍用機(戦闘機型、爆撃機型、偵察機型)を作ろうとしただけで、イギリスが貧しかったわけではない(イギリス人が聞いたら怒るぞ)。ちなみにこのモスキートが活躍する戦争映画に『633爆撃隊』(633 Squadron(1964))がある(戦後残存していた本物のモスキートが飛行している)。ちなみに日本も戦争末期になると木製機を作り始めた。これは資源がなくなったからで、たとえば四式戦「疾風」の木製型というのが作られた。しかし木で作ると、金属製よりも重くなったり、木を接着する技術に問題があったりして、実践には参加していないと思うけれども。あと同じ中島飛行機でつくった「剣」という戦闘機も木とブリキ製だった。これは離陸したら投下する車輪付きの特攻専用機。まあよくこんなものを作ったと思う。これは日本が貧しかったから出来たもの(下の付記参照)。


あと「燃料タンクがゴム製になったいきさつ」くらい書いておけよ。つまりこの金原、軍用機について何も知りません。知っていたら、調べる必要もないし、また調べても事実誤認をするはずがない。でも、いっておくが、軍用機のことについて、知らなくっても、なにも恥ずかしいこともない。知っているほうが恥ずかしい。この私の本日のブログを読んで引く人も多いはずで、私は恥ずかしい知識を披露している。


だから軍用機について知らなくてもよく。そもそも知らないから調べたんでしょう。自分は武器・兵器マニアとは違うのだと、むしろ胸を張ってしかるべきであって、それをくだらないジェンダー・イメージをもちだし、くだらないマッチョぶりやがって。しかも言いも言ったり「このハードボイルドなんかは、その手の話が好きな男性が訳したほうが絶対にいいと思う」っというのは、ほんとうに自分で自分の首を絞めたほうがいいアホ男の言い分だ。兵器・武器・軍事の話をしていて「ハーどボイルド」でくくるとは。頭おかしいんじゃないの。この馬鹿先生。


さらに旧版のあとがきにはこうある:

『ブラッカムの爆撃機』に移ろう。これも短編の名手ウェストールの面目躍如の作品だ。とくに真ん中あたりの、燃えるドイツ機の鬼気迫る描写はすごいし、それにやはりシェパード犬の扱いがにくいほどよくきまっている。ぼくの大好きな作品だ。
 さて、一九四〇年六月二十二日、フランスを降伏させたドイツは、イギリス本土侵攻をくわだてるが、なにしろ陸軍、空軍が強力なわりに海軍力が弱いため、まず制空権を握ろうと、空から大々的な攻撃をかけることになる。これが同年八月。そしてイギリスは総力をあげて、それを阻止しようとした。いわゆる「大英戦争」(「バトル・オブ・ブリテン」)という、ドイツ対イギリスの大規模にして熾烈な空中戦が繰り広げられることになる。結局これはドイツの惨敗に終わる。理由は、根本的な作戦の誤りというのが、大方の軍事評論家の意見だ(百三ページ参照)。
 このあと戦況がよくなるにつれてイギリスはドイツ爆撃に入り、そのときに出かけていったのがランカスター爆撃機ウェリントン爆撃機。ついでにいっておくと、ユンカースについているシュレーゲ・ムジークという機銃は、普通はコックピットから斜め後方につきだしている。これだとパイロットのディーターが撃てるはずがないので、作者にきいてみたところ、斜め前方に突き出ているものがあるのだそうだ(戦闘機や爆撃機に備えつけてある銃器は、口径の大小によって機関銃と機関砲とにわかれるのだが、煩雑なので、一括して機関銃あるいは機銃と訳しておいた)。
 その他、書けばきりがないのだが、予備知識などなくても十分に楽しめる作品なので、まずはこれくらいにしておく。やわな児童文学など吹きとばすくらい重量感のあるウェストールの短編、存分に楽しんでいただきたい。

知ったかぶりの知識を披露しているところは目をつぶるとして*2、ゆるがせにできないのは「ユンカースについているシュレーゲ・ムジークという機銃は、普通はコックピットから斜め後方につきだしている。これだとパイロットのディーターが撃てるはずがないので、作者にきいてみたところ、斜め前方に突き出ているものがあるのだそうだ」というくだり。もうアホか。


「ユンカース」というのは航空機メーカーの名前なので、日本風にいえば「中島」とか「三菱」とか「愛知」とか「川崎」とか「川西」というようなもので、意味をなさない。斜め銃というのは「普通はコックピットから斜め後方につきだしている」?――それは主に爆撃機や攻撃についている防御用の機関銃・機関砲のことでしょう。それを斜め銃とはいわない。斜め銃とは前方にむけてついているもので、銃手が照準して発射したり、銃手がいない機種の場合は、パイロットが撃つ。これは攻撃兵器。爆撃機の後方から下方にもぐりこみ、攻撃するもので、同時期、ドイツと日本でも開発され使用された(ゼロ戦にだって、斜め銃が搭載されたか、搭載予定の機体があったはず)。どちらの国も連合国側の爆撃に苦しんでいたから。そんなこと調べればわかりそうなものなのに、わざわざ作者に問い合わせるとは、なんたるアホか。ほんとうに馬鹿な翻訳者がいたもので、天国にいるウェストール氏には、馬鹿な日本人翻訳者が迷惑をかけたことを、謝るほかはない。ウェストール氏が翻訳者の力量に不信の念を抱かなかったことを祈るばかりである。


閑話休題
ウェリントン爆撃機のMkICと、この作品に登場するMkIIIの外形上の大きな違いは、MkICには胴体に横に長くて細い、大きな窓がついていること(この窓から、大圏構造を形作る骨組みが見える)。MkIIIになるとそれが廃止されて、尾部近くの胴体にある三角形の窓となった(はずだが)。またプラモデル的にみると、性能の良くなったMkIIIよりも、長い窓があるMkICのほうがずっと面白い。とはいえこの作品に登場するのはMkIIIだ。MkIIIのモデルがあればいいと思っていたら、トランペッターが、ヴァリエーション展開のひとつとして、MkIIIの発売を予告した。これを買わなくてはと、いつも思っている。


……と、いつも思っていた。最近、大掃除をしていて、クローゼットを開けた。不要なものをクローゼットのなかに放り込むつもりで。ちなみにクローゼットの中は、プラモデル屋さんの倉庫みたいになっていて、買っただけで作る予定もないプラモデルが積んである。そのなかにウェリントンMkIIIがすでにある。えッ、買っていたのだと驚く。だが、多いとはいえ、毎日買っていてる本とは違い、作る予定もなく集めているキットの数はたかが知れているのだが、それでも、いったいどこで買ったのか(基本的に通販なのだが)思い出せない。どこでこれを買ったのだろう。ウェストールの怪談話以上に、不思議だ。いくら頭がぼけているとはいえ。 


付記:
本編でふれた中島飛行機の「剣」について。ネット上に「キ115「剣」誕生秘話」というサイトがあって、そこで中島飛行機の技師であったという人物の手記が載せられていて、「剣」は一般に言われているようなおぞましい特攻専用機ではなくて、簡略な単発の攻撃機(固定武装はないので戦闘機ではない)であり、脚がついていないくても、基地に胴体着陸してきた機体を回収して、再利用するためのものであったと書かれている(これは単行本化されたものの内容の一部を再録したもの。青木邦弘(著)『中島戦闘機設計者の回想―戦闘機から「剣」へ 航空技術の闘い』(光人社NF文庫)参照)。しそれがほんとうなら狂気としかいいようがない。もし狂気でなかったのなら、こういう嘘はうんざりである。


「剣」には降着装置がない。もし着陸するのなら、胴体着陸しかできない。だから片道だけの特攻専用機といわれるわけだが、そうではなくて胴体着陸した機体を回収して使うのだという。ボンバルディア機の胴体着陸からもわかるように、ゆっくり降りてきた旅客機でも、胴体と滑走路がこすれて火花が飛んだ。機体は相当損傷を受けるだろう。「剣」の場合は、エンジンだけ回収できればよいと考えていたふしがある。ちなみにボンバルディア機の場合、高翼にエンジンが付いているので、たとえ脚がまったく出なくて胴体着陸しても、エンジンとプロペラは守られる。しかし単発の「剣」の場合には、胴体着陸すれば、当然、プロペラが地面とぶつかり、折れたりちぎれたりするだろう。またその衝撃でエンジンも傷むだろうし、プロペラ軸が曲がる可能性もある。そんな一度胴体略陸した機体のエンジンなんて、使い物になるはずがない。もし回収を考えていたというのは、もしそこに嘘がないとしたら、技術者の罪の意識からくる自己欺瞞以外の何者でもないだろう。


Wikipediaの記述も、この青木説を疑っていて、さらに特攻専用機であった証拠を出している。その証拠についての真偽は確認できないが、証拠がなくても、青木の記述がおかしいことは歴然としている。沖縄で日本軍が自決を強要しなかったと同類の歴史改変は、もううんざりだから。

*1:第二次大戦中に、イギリスが使用した雷撃機ソードフィッシュというのは、羽布張りの複葉機(!)なのだが、なぜこんな第一次大戦の遺物のような飛行機を作って使用したのかは不明だが、資源が不足していたわけではありません。

*2:「大英戦争」とか「制空権」という言い方は今はしない。たとえこのあとがきが書かれたのが1990年代でも、事情は同じだろう。それに当時は世界に冠たるイギリス海軍を、海軍力が弱いとは。なんちゅうことをぬかすのじゃ、このアホ。これはひどいイギリス海軍が聞いたら怒るぞ。