あかね空/ハッピーフィート


上映されはじめて二週間なのだが、近くのシネコンでは、今日から一日一回の上映になって、もう終わるのかもしれないとあわてた私は、12時30分から上映の『あかね空』を観にいった。週末ということもあって、シネコンもけっこう混んでいて、前の数列を除いて、ほぼ満席であった。私よりも若い観客よりも、私よりもあきらかに年上の観客が多かった。爺さん、婆さんが多かったということだが。


個人的感想だが、また原作は読んでいないのだが、予想通りの部分と、予想外の部分があって、どちらの部分でも不満が残った。


予想通りの部分では、まあ「家族力」の人情話なので、泣けるところが随所にある。ちなみに、根津神社でロケをしたのではないかと思われるシーンががあり、根津神社は私にとっては思い出の場所なので、思わず涙が出てきてしまったが(映画のなかではそこは泣けるところではない)、そのくらい涙を誘う映画でもある。なんのこっちゃ。


上方の豆腐を江戸に持ち込んで売ろうとして苦労する男、永吉の話だが、やがて商売も軌道に乗り18年後、その子供たちの代に話はかわり、家族の力の話しになり、失いかけた家族の絆を取り戻すことで映画は終わる(まあ予想通り)。しかし映画の冒頭は、江戸深川での話よりも20年前に遡り、親子が別れる話である(予想外)。しかしこの長い時間(ほぼ40年間の時間)を扱う映画は、固さと口当たりの良さが同居している。


上方の豆腐というのは、絹ごし豆腐のことだろうか。よくわからないが、この映画そのものが上方の豆腐のようである。味もいい、こくもある。りっぱな豆腐、いえ、作品かもしれないが、筋がぐたぐた。口当たりはいいけれど、最終的にしゃきっとした固さがない。


映画は、関連した人物を一度に画面に納める手法をとり、切り返しでドラマをもりあげることがなく、長回しが多いため、舞台を見ているような緊迫感あるいは充実感がある。またショット・切り返しショットを使うことがなくなると、人間関係の絆が危うくなったり切れたりすることになり、そこに工夫が見られる。だからそこに問題はないのだが、やはり筋立てか。


そもそも内野聖陽が二役(豆腐屋の永吉とヤクザの親分伝蔵)になる意味がない。昨年映画館の予告編で観たときは、上方から来た豆腐屋、火山の大噴火、そして盗賊の首領のような主人公という流れだったので、頭のなかで勝手に物語をこしらえた。上方からやってきた豆腐屋の青年が、苦労して江戸で豆腐屋をつづけて成功するが、富士山の大噴火によって災害にあい、商売も家も家族も、すべてを失ったあげく、盗賊に転落してゆくという、ちょっと荒唐無稽だが哀れを誘う悲しい物語を。しかし、これはとくにネタバレでもないと思うが、内野聖陽一人二役なのである。そして二役にした意味が、いまひとつはっきりしない。いろいろ理由は考えられるが、どれもあまり面白い理由ではない。というか二役にしなくてもよかったのでは。


不満といえば、江戸、深川の界隈の人間関係である。そもそも上方からやってきて、上方風の豆腐をつくって、それがなかなか受け入れられない。ただ長屋の綺麗な娘だけは、この青年に好意を寄せ、周囲には受け入れられていない豆腐の価値を見出すのだ。う〜ん、はみ出し坊主が優等生の女の子に好かれる話。最近、どこかで見たような。そう、ハッピーフィートじゃい。内野聖陽は、ハッピーフィートか。


アニメ『ハッピーフィート』は、タップダンスの才能に恵まれているが、うまく歌う能力に欠けた皇帝ペンギンの男の子が、周囲に嫌われ、いたたまれなくなって、群れを出てゆく。ただし幼なじみで優等生の女の子の皇帝ペンギンからは、どういうわけか、あるいはお約束かもしれないが、好かれてしまうのだが。周囲に好かれない、異能者という点で、内野聖陽は同じである。だた類似点はそこまでかもしれない。


しかし『あかね空』の特異性あるいは不満なところを浮かび上がらせるのは、差異のほうである。


南極大陸に住むのは皇帝ペンギンアデリーペンギンの二種類だけで、あとは南半球の寒冷地に住んでいるにすぎない。皇帝ペンギンは、体が大きい(映画『ハッピーフィート』では主人公の愛らしい子供時代は、けっこう早く過ぎ去り、背丈だけが伸びるが、まだ羽毛が生え変わらない(「羽毛の塊」と呼ばれている――すみません、栞ちゃんといっしょに観にいったので、吹き替え版でしか見ていない。英語でなんていうのかわかりません)、ややグロい格好の主人公、一挙に見た目の可愛さを失ってしまう主人公に、『ハッピーフィート』の観客は不満かもしれない)。彼らは南極の奥地で卵を産み、雄が卵を孵化させる。いっぽうアデリーペンギンは、小柄で、岩の上に石で簡単な巣を作り、そこで卵を孵化させる。さて、皇帝ペンギンの群れから離れた主人公は、アデリーペンギンたちと出会うことで、新たな展開を迎えるのだが、このアデリーペンギンの五人組が、最高におかしくて、もうそこだけでも拍手喝采したかった。いまでも。


アデリーペンギンの五人組は、いつも陽気で、人生を前向きに生きていて、くよくよせず、ポジティヴに生きている。しかも彼らの陽気さは、他者にもむけられ、皇帝ペンギンハッピーフィートを、なんの気取りも恩着せがましところもなく、自然と仲間に加えるし、ハッピーフィートの特技であるタップダンスを称賛し、ぜひ教えてくれと迫るのだ。


映画のなかでは格式と伝統を重んじて息が詰まるような皇帝ペンギンの世界と、自由気ままで新しいもの珍しいものに心開き、他者を差別しないアデリーペンギンの世界は、皇帝ペンギンアングロサクソン系、アデリー・ペンギン=中南米系つまりラテン系というように意味づけられている。その証拠に、映画のなかで、アデリー・ペンギンたちには、みんなラテン系の名前が付いている。伝統や格式から自由で、死をも笑いのめし、ポジティヴに生きていることで、新奇なもの、異様なもの、そして他者をも自然体で受け入れていくアデリー・ペンギンたち(あくまでもこの映画の中での話しであって、実際のアデリー・ペンギンがそうだというのではないが)。この見習うべき生き方をする彼らは、欧米の世界ではラテン系、日本で言えば、さしずめ関西系かな。


そう思った瞬間、『あかね空』の世界にもどった。いまでこそ関西系というような、やや無責任なかたちで、文化記号化されてしまう世界は、江戸時代には、まさに江戸に実現していなかったのか。江戸こそ、関西系ではなかったかと、ふと思った。


関西系としての江戸。冗談みたいな話かもしれないが、しかし、文化と伝統の格式の地であり、経済的実験を握っていた地、上方に対して、江戸は、諸国から、さまざまな階層の人々を集め、活況を呈していた庶民的な町ではなかったか。江戸が東京へと変わり、政治経済文化の中心となって、かつての活力を失い、逆に格差の温床となってゆく以前の、江戸はまさにアデリーペンギンの世界、日本のなかのラテン系であり、関西系であったはずだ。皇帝ペンギンアデリーペンギンの対立は、アングロサクソンvsラテン系という軸のなかに、さらに階級的観点から、武士の世界vs庶民の世界という二極構造をも組織する。


『あかね空』の江戸は、庶民の世界でもある。伝統と格式に縛られている武家社会に対して、自由な庶民の世界。ちなみに時代物につきものの武士の姿は、この映画のなかでは、たくさんの群衆のなかにいたかもしれないが、早がけの馬上の武士以外、意識しないとみかけることはない。というか武士の姿がまったく印象に残らない映画なのだ。


となると江戸深川の世界は、庶民世界のユートピアとして意図されていたのかもしれないが、映画のなかではユートピア性が見るまに失なわれててゆく。上方の豆腐を、普段、自分たちが食べている豆腐と違うからと嫌うことが、江戸時代にあったのだろうか。どちらにせよ、この上方の豆腐屋の豆腐は永代寺の僧侶たちと、もともと上方のものをありがたがる高級料亭で受け入れられるだけで、肝心の庶民世界では市民権を勝ち得ていないようにも思われる。さらに豆腐屋の寄り合いというか同業者組合では、同業者が一律に値上げすることを強要され、一途に値上げをしない内野聖陽豆腐屋が白い目でみられてしまう。さらにはどんなに大豆の値段が上がっても、豆腐の値段はあげないというのが上方の流儀だといわれると、本来なら格式を重んじ、排他的な、嫌なところであった上方が、なんだか、まだ見ぬ夢のユートピアになってしまう。いっぽう江戸は、格式と協調を重んじ束縛が多い、なんだか居づらいところに思えてしまう。この映画で江戸は、残念ながらユートピアではない。


オールタナティヴの地であったはずの江戸が、こうなってはユートピア性を失い、江戸のオールタナティヴを探さなければならないとは。


この弱さ、鮮明なコントラストが出せないまま(それは単純な二項対立を回避したというのではなく、何が対比なのか把握できなかった製作者側の弱さだと思うが)、構造がゆらいでしまうのは、物語の流れからもいえる。


そもそも冒頭で離れ離れになった親子は、その後の自分たちの境遇なり運命なりを見極めたのだろうか。最初、豆腐屋内野聖陽が、実は冒頭でいなくなった子供の成人した姿かと思わせるのは、よい仕掛けかもしれないが、実は、ヤクザの親分のほうが、その子供だとすぐに判明する(ここに二役の意味もでてくるのだが)。となると、逆に、豆腐屋の主人公、この上方からやってきたこの男は、なにやら謎めいた存在になってくる(原作ではどうなっているのか、不思議だが)。また店舗を購入して子供たちに残すことができた矢先に事件が起こるのはいいとしても、結局、最終的にこの件は、うやむやになり、どうでもよくなってしまう。そして結末。結末が実はふたつある。最初のほうの結末にダメ押しをするような二番目の結末は、いかがなものか(ネタバレ注意*1


結局、江戸深川をユートピアにし損ねたこの映画(江戸を関西系として意味づけるかわりに、現代の東京と同じようなものにした。つまり歴史性をみずからの手で放棄したのだが)、は、映画の物語そのものも、中途半端なものした。いくらCGで江戸の町を再現しても、違和感のあるアナログ的な表現を使わせてもらえば、塗り残しが目立つのである。

*1:店舗を悪辣な同業者に奪われることになるが、たとえ店を失っても、それで家族の絆が強くなり、失ったなものより得たものが多いことを実感させる結末は、感動的だが、そのあとに来る第二の結末は、その悪辣な同業者を陥れる(『ヴェニスの商人』のシャイロックいじめのようなもの)ものだが、これがなんともわざとらしいし、とくに感銘を受けるわけでもない。