白日の狂気

 しまいにわたしは、白日の狂気を直視しているのだと確信した。ありようはこうだった。光は狂ったようになり、明るさはいっさいの良識を失っていた。それは不条理に、規則もなく目的もなしにわたしを襲うのだった。
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「ああ白日がみえる、ああ神よ」

モーリス・ブランショ「白日の狂気」‘La folie du jour’ *1

本日ダニー・ボイル監督『サンシャイン2057』(Sunshine (2007))を大学からの帰り、近くのシネコンで見てきた(また暇人といわれそうだが)。この映画、ネット上での評判について予習してみたところ、褒めている映画評のなかで、否定的な評価も目に付いた――よくわからないとか、真田広之は仕事を選べというような評価、テレビのコマーシャルから受けた印象とは違いすぎたなど。


結論から先にいえば、この映画、大傑作ではないかもしれないが、映画史上に残る快作であることはまちがいない。


評判の悪さの原因を考えてみると、最初に重厚でリアルなSF映画を予感させながら、いつのまにかチープなホラー映画にかわってしまったことと、そのくせ『2001年』(この映画との類似性を指摘する映画評は多い)を髣髴とさせる形而上的な面があることに、違和感を覚えたということかもしれない。モノリス突入前の『2001年』の重厚な未来映像をみせる映画が、いつのまにか『エイリアン』(リドリー・スコット監督の第一作)にかわってしまい、最後に形而上的『2001年』で終わってしまったということか。なるほどというなかれ。これはこの種のSF映画に対するオマージュではないかもしれないが、映画的記憶を喚起しながら、それと戯れてみせ、そして彼方へ行こうとしている映画かもしれないのだ。


また映画評のなかでは人間の小ささを思い知ったというものがけっこうあったが、それは逆でしょう。衰弱した太陽の中に、マンハッタン島と同じ大きさの核爆弾を投下して、太陽のなかに太陽をつくりだして、太陽を活性化するというミッションを遂行するなかで*2)、数々の想定外のアクシデントに見舞われる。しかも遮蔽板の表は、灼熱という言葉を超越した光と熱の世界、その裏側は絶対零度の世界という危険きわまりない環境。そしてさらに悪魔化した妨害者。このなかで人間の努力は無残にも無に帰してしまうかにみえて、ひとりひとりの超人的意志が最終的にミッションを完遂させる。そこにあるのは人間の卑小さどころか偉大さであって、偉大であるからこそ神によっても祝福されるているようにみえる。神、それは人間が直視できない存在、遭遇したら人間は消滅するしかない存在。この場合は太陽である。


神は太陽というアレゴリーを通してしか存在できないように思われるが、同時に、太陽は、ただアレゴリーとして機能するだけではなく、その強烈な存在によって、もうひとつの存在をアレゴリカルに提示する。すなわち映画そのものである。


映画スクリーンは映写機からの光を反射する存在であり、まあ惑星あるいは衛星のようなものである。だが惑星にとっての夢は、みずからが反射体ではなく、光源となることだ。いやスクリーンだって暗い映画館のなかでは、りっぱな光源であるが、しかしその光源には映写機というもうひとつの光源があった。光源の光源。それを排除して自己内光源化こそがが、映画の見果てぬ夢であろう――あるいはその自覚が映画のモダニティを実現に導いた。それは映画の不可能な夢である。みずから強烈な光を、そのまえでは見ることも存在すらも許されない超越的な光を発する存在に、つまり太陽となるとき、映画館も観客もすべてが焼き尽くされるであろうから。


ちなみに初期の映画では、よくスクリーンが焼けた。いや焼けたと思ったのだが、それは映写機に掛けられたフィルムが焼けたのだったが、焼ける瞬間、世界の枠組みが、世界の外部が垣間見えた。映像をつくっているフィルムが一瞬、垣間見えるからである。さらにスクリーンが燃える映画、映画館が燃える映画(『シネマのパラダイス』のような)を通して提示されるのは、光の凝縮が発熱して発火するという映画の不可能な夢の、アレゴリカルな実現なのである。


この映画は、まさに光と熱の、究極の淵源たる太陽に向かう、いや向き合うことによって、世界の形而上学に点火すると同時に、映画の形而上学を発動させる。神との遭遇は、また、光と熱との遭遇でもある。焼き殺される人間の主題は、光によって盲目にする映画の不可能な夢をも立ち上げた。あるいは映画の狂気。この白日の狂気を、この映画は、映画史のどの映画にもないかたちで、ストレートに観客に浸透させたのである。……焼き尽くされた。


遮蔽版の裏側が絶対零度なのはおかしいとか、宇宙服なしに宇宙空間には存在できないとか、植物で船内の空気をつくるのはアナログすぎるというつっこみもあるようだが、私は科学の専門家ではないのでなんともいえないが、これは荒唐無稽な設定ではなく、シミュレーション済みでもあるはずだ。


またキリアン・マーフィーは、昨年は映画館で2本見たが、今年も映画館で会うことになった(彼が『28日以後』の主役を獲得したことで、ダニー・ボイルとユアン・マクレガーは決裂したのだが)。なおキリアン・マーフィーの映画のなかでの友人・喧嘩相手のクリス・エヴァンズは『ファンタスティック・フォー』に出ていた。『ファンタスティック・フォー』では、手から炎を出せた彼が、冷却液と格闘するところはなにか意味があったのだろうか。真田広之は予想どおりの演技だったが、話している英語が違和感なく周囲に溶け込んでいたのは立派。ミシェル・ヨーは予想通り。ローズ・バーンは、『マリーアントワネット』にも出ていたようだが見ていない。『トロイ』とか『ウィッカーパーク』に出ていた彼女しか記憶にないが、泣いてばかりの、でも意地悪女という役どころではなかった点がよかった。


問題のピンバッカー役のマーク・ストロングは『シリアナ』のテロリスト役だったか、王子役だったのか忘れてしまったが、アジア系の役どころであった点がひっかかるが、この映画のなかでは、実在(生身のやけどの塊)と不在(過去の交信映像)の中間的存在で、だからはっきりでてこないし、妨害者であるかにみえて、太陽という神との媒介者でもあるという二重の存在になっている。トレイという人物は、役名からして中国系なのか韓国系なのか、よくわからないが、自分のミスを恥じて最後は死んでしまうというのは、ヒステリックなアジア系というステレオタイプのイメージなのだろうか。アメリカのヴァージニア工科大学の銃乱射事件が、そうしたステレオタイプを強化しないことを祈るばかりである*3


あと、昔のSF映画などをみると、メールを使っていないことに違和感を覚えることがあるが、この映画ではロボットが出てこないことに違和感がある。現実には危険な船外活動などはロボットにやらせると思われるのだが、ロボットが出てくると一挙にチープな感じになるから避けたのかもしれない。これはコンピューターが出てきてもロボットは出てこない『2001年』の方向性を狙ったのかもしれないが。


とにかく予想外によかった映画であり、その白日の狂気に確実に染まった私は、映画館に傘を置き忘れてしまった。気付いたときに(外は雨だったのだが)、とりに帰るのもめんどうくさいし、そもそもそれはコンビニで買った一番安物の傘だったので(研究室においていたそれを、さしてきたのだが)、それをわざわざ係員に事情を話して探すのは、ほんとに面倒だと思い、傘を買った。安物のビニール傘だとまた忘れるかもしれないと思い、高い傘(とはいえいま傘は安く買えるで、高いといっても安いのだが)を買うことにした。そのとき、大きめの傘を選んだ。人混みでさしたら周囲に迷惑がられるかもしれないほどのビッグサイズの傘を。でも、この映画を観た人なら、大きな傘を買いたくなる気持ちは理解できると思う。

*1:田中純一訳、ブランショ『白日の狂気』田中淳一・若森栄樹訳(朝日出版社1985)所収。

*2:ちなににこれは『鉄腕アトム』のミッションと同じなのだが。

*3:ネット上では、犯人が韓国系の学生であったことから韓国差別の言説を垂れ流す馬鹿がいて、嘆かわしいばかりだが(一時、中国系の学生と報道されたときは、中国差別の言説が流された)、差別をする彼らナショナリストの馬鹿の人間性が下劣なのはいうまでもないが、彼らは、アメリカ(あるいは欧米)では、中国系も韓国系も日系もみんないっしょくたにされて同じだということにまったく気付いていないことで、その愚劣さを倍化させている。アメリカで韓国系差別の言説が垂れ流されていたら、それは日本人(ひいてはアジア人全体)に対する差別でもあること、韓国系への差別発言を繰り返している日本人は、自分たちもアメリカでは韓国系といっしょにされて差別されていることを思い知るべきだ。