仮面の告白『東京タワー』ゲイ映画解説5


本日、映画『東京タワー』を見てた。評判の映画で、中高年が多かったものの、若い人たちも多く、まあヒット映画だった。


主人公が上京して暮らすことになった母親を、車で夜の東京見物に連れてゆくのだが、そのとき、いま私がみている映画館(ピカデリー2)の入っているマリオンの夜景も映し出されて、ちょっと変な気持ちに――自分が映画の世界に入り込んだような気分になった。


周囲では号泣している中高年の観客が多かったのだが、私の母も、東京に出てきて、私といっしょに暮らして、東京の病院で癌で死んだので、映画は、とりわけその後半は、まるで自分のことのように思えたのだが(だから映画の一部になったような気がしたのだが)、ただ親とか肉親を失った人間は、またそうした経験をしたことのある中高年の人間は、同じように感ずるにちがいない。親であろうが、誰であろうが、私たちにとって親しかった人に対して、生き延びている者が言えるのは、映画のなかのオダギリジョーと同じで「ありがとうと、ごめんなさい」に尽きる。そういう意味でも、この映画は、特定の時代の日本人のありきたりな経験を題材にしている。そのありきたりさ加減が、共感と感動を呼ぶのかもしれない。


ちなみに、この映画をみて私が母親にできた唯一の親孝行は抗がん剤治療をしなかったことであると実感した。この映画は、抗がん剤による副作用の苦しさが、尋常なものではなく、七転八倒するものであることを描いた最初の作品ではないだろうか。手術もできない癌であるということは、もう助からないということである。それにもかかわらず、抗がん剤の拷問をするというのは、延命措置という理由付けがあるからだ。しかし抗がん剤治療を生き延びても、最後は、同じような死の直前の激痛が待っている。だったらわずかばかりの延命治療のために抗がん剤による地獄の苦しみを味わうよりは、やめたほうがいい。医療機関抗がん剤治療にこだわるのは、延命治療を行なうという善意と使命感であるとしても、抗がん剤が異様に高価なものであり(保険で支払われるので患者には高価という実感はない)、医療機関や製薬会社は潤う。まさにそれは悪魔のシステムだ。人間の善意が悪魔に利用されているのである。私の母と私は相談のうえ抗がん剤治療を断った。いまでも、たとえ、ほかにはやまのようにある悔いのなかで、これだけは悔いではない。


まただから映画そのものは、予想通りの映画だったといえるのだが、しかし、予想していなかったこともある。それはこの映画の主人公がゲイであるということだ。


もちろんゲイであるとはっきりでてくるわけではない。しかし、たとえば作者のリリー・フランキーがどういう人だかわからないぶん、またもちろん主役のオダギリジョーについても何も知らないぶん、主人公を、純粋に映画のなかで描かれた存在として受け止めることができた。そしてその存在とは、彼がゲイであるということだ。


ゲイの人間は母親が好きだとか、ゲイの人間にとって、ディーヴァ型の女性(きらびやかで派手で衆目の中心になるような女性、あるいはたとえそこまで華麗でなくとも、性格的に強くてしっかりした女性とか、女性よりも男性的でもあるし、女性以上に女性的でもあるような女性、まあつづけていくときりがないのだが、しかしこの映画でも母親は東京に着てからはディーヴァ的女性に変貌する)への愛好が基本にあるということをまったく抜きにしても、主人公の生い立ちには、ゲイ的要素がつきまとう。


たとえば中学生時代、まだ声変わりをしていないという設定なのか、妙に甲高い声の女性的なところの多い少年になっているし、母親から離れて暮らすようになった高校生時代でも、女性性は抜けきっていないし、高校時代の親友、平栗君(勝地涼)は、高校時代は、はっきりわからなかったが、主人公が東京で再会して以後は、理容師、ダンサー志望のゲイキャラである。また自分の力で、バーのオーナーになっても、開店祝いに来た客の松たか子から「あら普通の店ね」といわれるくらいにゲイキャラがたっている。その平栗君と主人公は、一時期、同棲している。


さらに平栗君と別れたあと主人公が同棲する相手、似顔絵教室で知り合った「えのもと」(荒川良々)もまたゲイ的な人物であり、「おかん」が東京に来てからも、彼は常に主人公に寄り添うように存在している。もちろん男性どうしの同棲は、同棲ではなく、一人では家賃・部屋代が払えないから部屋をシェアするだけであって、それを同性愛もしくは同性愛的というのは誤解である(「悲しい」なんて言ったら殺すぞ)といわれるかもしれいが、では、だったら、同居する相手にゲイ的キャラクターを選ぶ必要なない。むしろ同性愛的要素を読み込むのは、逆説的ながらストレートな読みなのである。


もちろん究極的なゲイ・キャラは主人公自身である。主人公のファッションセンスは――ここでは、オダギリジョーが演じていることは忘れるべきだ――、アーティスト系であると同時にフェミニンン系である。そのファッションセンスは、母親ともシンクロしているところがあるのだが(母親は喉の手術跡を隠すためにスカーフやマフラーをすることが多いのだが、それはまた主人公のファッションにも伝染し、ここに母子一体化が成立している)、微妙に女性的なのである。そしてそのこともまた主人公がゲイ・キャラであることを強化する。


あるいは、たとえば主人公がDJを仕事にしている深夜番組。その番組の内容の一部がラジオ・スタジオでの映像とか、おかんが入院している病室のラジオからの声として紹介されるのだが、ここで記すのもはばかられる、そのくだらない下ネタは、1)年上というか年輩の女性とセックスしようとする夢を見て、そのとき開いた女性の股の部分が魚の頭になっていたというもの。まさにデンタル・ヴァギナ(歯の生えたヴァギナ)の変型譚。もうひとつは2)男性がオナニーをするときにこんにゃくを使うという話に端を発して、味噌田楽、さらにはあわせ味噌へと展開する話(私には、ついていけない話だったが)――まさに典型的なペニス・ネタ。女性に対する恐怖(デンタル・ヴァギナ)と女性抜きのセックスのユートピア(こんやくオナニー)をもってして、これをゲイ的いわずにしてなにか――まあ、強いていえばホモソーシャル的なのか。


いや主人公のまわりには女性がたくさんいると、いえるかもしれない。弱くて変人の父親に対して、母親の実家、実家の祖母から親戚の女性たち。そして大学時代に同棲していた女性。さらにはおかんが東京に出てきた頃の恋人松たか子。しかしこうした女性たちは、たとえば少年時代の女性たちは、異性愛体制を強化するというよりも、主人公の子供から少年時代にかけてのホモソーシャル体制が、男性ホモソーシャルではなく女性ホモソーシャルであったことの強調であり、それは異性愛体制を弱体化あるいは劣化させるのである。


あるいはこうも言える。九州の女性たちも含めて、東京で主人公の恋人ともなった女性たちは、究極的には「おかん」を唯一の最高の女性とするための、引き立て役であり、また、彼の恋人たちは、「おかん」と寝ることができない主人公にとっての、究極の聖母の代役であり、代役である以上、長続きしないのである、とも。「おかん」は一昔前にはやった表現をつかえば、超越的シニフィアンなのである。


もちろん恋人や許婚者と、さしたる理由もなく別れるのは、ハムレットからカフカにいたるまで、ゲイの男性の特徴である。この映画でも主人公は、松たか子と――主人公のマザコンぶりに抵抗を示すことがなかった稀有な女性ともいえる彼女と――、別れるのだが、その理由は明確に示されていない。示されないことで、主人公のゲイ的性格を暗示しているのだが、同時に、別れたあとも、松たか子が消えないのは、大物女優だから簡単に消すのはもったいないということではなくて、女性を性の対象としてみない主人公が、彼女と真の友情関係が維持できるからとみたほうがいいだろう。


映像的にみると、たとえば主人公が母親の手をひいて、病院に出かけるときに、横断歩道を渡るシーンなどは、この映画の代表的な場面かもしれない。主人公が幼い頃、母親に手を引かれて線路を伝って母親の実家へと連れてゆかれるシーンと、大人になった主人公が老いた母親の手をひいて横断歩道を渡るシーンのなかに、ふたりが歩んできた人生が凝縮されているし、さらにこのシーンで画面がスローモーションになることで、周囲の時間が止まって、母親と息子だけの、誰も踏み込めない閉じられた親密な世界が情勢されることも特筆に値するだろう。


だが私が着目したいのは、母親が東京に呼ばれて九州をあとにして旅立つとき、母親役の樹木希林の横顔と、その背後の車窓からみえる景色に、オダギリジョーが歌う「炭坑節」がかぶってくるシーンである。樹木希林は画面左から右に向かって移動している。日本地図で上を北にすれば、西から東への移動である。この横移動は、さまざまな要素を出会わせ融合させる。西の世界(母親が代表していた)と東の世界(オダギリジョーが代表する)だけが融合するのではない。過去(それまでの「おかん」の人生)と未来(東京での新生活)。そして生と死もまじりあう。鉄道線路は、生から、やがて癌で死ぬ母親の死へと続いている。いま母親は列車のなかでその生死の融合のなかにいる。


さらにまた母親の姿に息子の歌声。映像と音声。現前と不在。そして母親と息子が重なりあう。今回、オダギリジョーが歌う「炭坑節」を聞きながら、はじめてこの歌の意味について目が、耳が開かれたような気がする。炭坑の男性労働者が歌う労働歌くらいにしか認識のなかった私にとって、二番三番と続くその歌詞には、唖然とするものがあった。これは女性の気持ちを歌っている女歌である。しかもエロい。ネットで調べてみても、いまに伝えられている歌詞は女性の歌である。Wikipediaでは「石炭からボタを取り除く作業に従事していた女性作業員が歌っていた『伊田場打選炭唄』が元になっているといわれる」と説明されている(起源には諸説あり)。たしかに赤坂小梅が歌う炭坑節を聞いたこともあり、労働歌をなぜ芸者が歌うのだろうかと昔不思議に思ったこともあったが、歌詞は女性の気持ちを歌っているから、しかもかなりエロいから、全然問題なかったわけだ。


ということは、オダギリジョーの歌う炭坑節は、さらにいろいろなものを集わせ融合させている。それは母親や主人公自身が暮らしてきた九州の炭鉱町というローカルカラーと、全国的に伝播したという普遍性との融合である。さらにそれは母親との、幼年時代に一瞬か今見えたセクシュアリティを感知させる。息子が母親のセクシュアリティを歌う。息子のせいで抑圧されたかもしれない母親のセクシュアリティを、いま息子が解放しようとしている。そしてそれが女性の歌であることから、ジェンダーの境界が越えられる。息子と母親、男と女の境界が越えられる。両者が融合される。


もはやこれはゲイ的なものではなく、それをも超えたクィア的なものかもしれないが、それを可能にしたのがゲイ的瞬間であること、ゲイ的瞬間を通してしか、この稀有な時間が出現しなかったともいえよう。この映画の想定外なことは、家族の絆、親子、母親と息子といった反吐が出そうな陳腐な題材が、ゲイ的瞬間というふつうなら抑圧されかねない要素に支えられていたということである。


これは織り込み済みのことだったのか。おそらく織り込み済みであろう。家族・親子・異性愛体制の根幹にある母親と息子の関係が、ゲイの人間によって語られ、それが、涙を、号泣を誘うのである。これは、コンピュータのディスプレイ上に、抗がん剤を投与した患者と抗がん剤投与をしなかった患者の生存率をグラフで示しながら、抗がん剤治療を進める医師(そうした場面がこの映画にあったわけではなくて、これはNHKのがん治療に関するドキュメンタリーのなかで私が目撃したのだが(ちなみにそのドキュメンタリーを批判した論文を私は読んだ記憶がある))が、自らの意見と行動が善意と科学的データに基づくことに揺るがざる信念をもっているだろうし、その倫理観には少しのぶれもないだろうが、ぶれがなければないほど、信念が固ければ固いほど、高価な抗がん剤で儲ける製薬会社の幹部は笑いが止まらないという関係と似ているかもしれない。善意が大きければ大きいほど、その善意につけこんで、人間の生命と生活の尊厳を無視する医療と製薬会社の悪魔的治療が介入するのだ。ちょうどこれと同じように、母子物語、家族物語という、古くて新しいどころか、ただ古いだけの陳腐で通俗的な物語が、通俗的な反応をもって受容されればされるほど、あるいは母親と息子のマザコン話と受容されればされるほど、そこに、通常なら抑圧されるか無視されるゲイ的存在が、たとえそれとはっきり認知されなくとも、しかしまぎれもなく感じ取られてゆくのである。たとえ前者の、抗がん剤治療の善意と製薬会社の共存が悪魔的瞬間であったとすれば、後者の、母親と息子の親子愛情物語におけるゲイ的要素の顕在化が天使的瞬間であるという違いはあるとしても。