凧の糸

映画『フラッシュバック』(原題Tangled 2003)は、劇場公開映画というよりも、テレビ映画かと思われるほどの、低予算映画だったけれども、主役の三人の人気で、いまでもレンタルでそれなりの人気があるようだ。三人、そうレイチェル・リー・クーリックとジョナサン・リース・マイヤーズ、そしてショーン・ハトシーの三人がからむ、予想外のスリーサム映画だった。


とはいえレイチェル・リー・クックは、もうティーン(『シーズ・オール・ザット』)ではなくなって舞台もハイスクールから大学になり、ちょっと悪(わる)のジョナサン・リース・マイヤーズとからむことになったが、しかし基本的に演技ができない女優で、彼女とは対照的に体だけグラマーで頭が弱く利用されてしまう女性という端役で出ているエステラ・ウォレン(『新猿の惑星』『ドリヴン』に出ていた)に演技面では負けている。あと女優でロレイン・ブラッコが出ているが、昔のリドリー・スコット監督のサスペンス『誰かに見られている』(Someone to watch over me)に出ていた頃の若妻役に比べると、歳をとっただけでなく、ちょっと太りすぎ。役柄の女性刑事
としての貫禄はあるのだが……。ちなみに彼女はわたしとほとんど歳が同じ。中高年太りという点でも同じ。


これがスリーサムの映画なのは、レイチェル・リー・クックをめぐって二人の男性が競いあうのではなく、ショーン・ハトシーが、ジョナサン・リース・マイヤーズに彼女を取られるのだが、それを許して三人の友情関係をつづけていこうとするところにある。その意味で、通常の恋愛映画というよりも、スリーサム映画でもあるので(というかスリーサム映画の設定を利用したともいえるのだが)、その点で興味深いものがある。


とはいえ全体的に評価はそんなに高くない映画で、台詞面で実はかなり思想的な深みがあっても、それを説得力あるかたち提示する演出力に欠けているのがなんとも惜しい。ただそんななかで唯一、なるほどと思われる場面があった。


ハトシーが空き地で凧をあげている。そこへジョナサン・リース・マイヤーズが凧をもってやってきて自分もいっしょに凧を揚げるとという。ハトシーはそのとき凧の原理を説明する。


凧の糸というのは、凧が飛んでいかないよう引っ張って留めているものだと思われている――凧という船をつなぎとめておく碇(いかり)のようなものだと思われている。ところが実はそうではない。凧は糸あるいは紐で下からひっぱられないと飛べない。凧に浮力を与えているのは、実は、凧の糸なのだ、と。その証拠に糸をはなしてみる。もし凧の糸が、凧をつなぎとめる碇のようなものだったら、糸を放した瞬間、凧はどんどん高くあるいは遠くへ飛び去るはずである。と、糸を放す。凧はその場ですぐに力なく落下する。凧の糸が、凧に浮力を与えていたのである。


スリーサム関係のなかで、こう講釈をたれるハトシーが、凧の糸の役をはたしている。彼がかたやクックへの恋心を捨てきれず、またリース・マイヤーズへの友情の絆も断ち切っていない、お人よしの退屈な学生であるがゆえに、クックとマイヤーズのカップルは、舞い上がることができるのである。恋人たちに浮力をあたえているのは、彼らにとって足手まといかもしれないハトシーなのである。


この足手まといなものが、実は浮力をあたえているというのは、私自身、スリーサム関係以外のところでも痛感している。


あるいはこうもいえる。友情か愛情かというテーマは、あれかこれかではなく、あれもこれもである。友情から愛情へとの移行はありえない。友情があるから愛情が育まれる。愛情に浮力を与えているのは友情である(ひょとしたら、その逆もまた真かもしれないが)。


Spoiler Warning(ネタバレ警報)


この映画では、凧の糸だったハトシーが、リース・マイヤーズを密かに陥れ、排除することによって、クックと結ばれるわけで、そのとき仲むつまじい(あるいは危険な)スリーサム関係は解消する。しかしこの映画の気付かれない怖さは、たしかにハトシーは凧の糸であることをみずからの意志でやめたのだが、そのかわり、ハトシーによって銃弾を打ち込まれても昏睡状態に陥ったことで、リース・マイヤーズが凧の糸になったことである。彼は死んでいない。ただ足手まといの昏睡状態の身体になっただけである。そして彼の身体が良心の呵責となってカップルを引っ張る役割をするので、ハトシーとクックのふたりは、今度こそ、ほんとうに結ばれるのである。結局、誰かが凧の糸にならないかぎり、恋愛関係は成立しない。怖い話である。