デブラ・ウィンガーを探して


医者が「今夜は山だ」というようなことを言うとき、それは「この患者は、今夜、死にます」ということの暗号であると気付いたのは、いい年をして、恥ずかしいのだが、四十歳代も後半に入ってからである。


2000年のことだが、自宅療養をしていた母の容体が急変して、癌の手術を受けた病院に、救急車で運ばれ、その日のうちに再入院して、安心した私は、医師からの説明で、「今夜が山だ」というようなことを言われたとき、母は危険な状態にあることはまちがいないが、今夜、様子を見みて、体調を安定させれば、翌日から、奇跡的に回復ということは望めなくても、体調は安定し、またそのまま延命治療を継続するものと思っていた。母親はこれまでも危険な状態を何度も乗り切ってきた。だから今度も乗り切れるだろうと思った。つまりその日の夜に死ぬとは思わなかったのである。


危険な状態であることはわかっていたから、一晩、個室の病室で付き添うことにした。しかしその夜死ぬとは思っていなかった。その証拠に私は、妹夫婦に、病院の近くのホテルに泊まってもらうことにした。今にして思えば、妹といっしょに病室で付き添えばよかったのだが(ただし、妹をホテルに帰した理由はそれだけではなかったのだが、ここでは関係ないので触れない)。


母は、その夜、痰がからむので、自分でボタンを押して看護婦を呼んでは吸引をしてもらっていた。意識は朦朧としていたが、痰をとってもらう自力はあった。一晩、ぐっすり眠れば、翌朝はには体調もよくなっているだろうと考えた。しかし明け方になって私は眠ってしまった。1時間おきくらいに見回りに来る看護師が入ってきたので、眼が覚めた私は、母の様子をみて看護師が「なくなられています」と話したのを聞いて愕然とした。母は、私が眠っている間に死んだのである。なんのために一晩、付き添ったのか、まったくわからなくなった。


最期の瞬間、母は私を呼んだのかもしれない。痰がからんで呼吸困難になって苦しい思いをしたかもしれない。あるいは眠るように息を引き取ったのかもしれない。さらに私が耳元で大声で声をかければ、死に行く母も一瞬、意識を取り戻して、何か言えたかもしれない……。しかし、それは永久にわからずじまいになった。実際、母親が正確に何時に死んだのか、私は知らないのである。


このことに、私はずっと苦しんでいた。「今夜が山だ」という暗号の意味を読み取る能力や経験不足もあったのだが、しかし、やはり眠ってしまったことに自分のうかつさに苦しみの原因があることはまちがいなかった。


愛と追憶の日々Terms of Endearment*1という映画がある。あの映画のなかで娘役のデブラ・ウィンガーDebra Wingerが若くして癌を患い病院で死ぬところがある。正確に覚えていないところもあって、まちがっているかもしれないが、彼女は衰弱して病院で治療を受けている。けっこう豪華な個室で、部屋の奥に寝台があり、あとは応接セットのようなものが置いてある。そこに家族や友人たちが介護と見舞いに来ている。深夜だったら明け方だったが、看護師が見回りに来る。家族の者たちは、みんな椅子に座ったまま寝入っている。看護師は彼女が息をひきとっていることを発見する。


私はその場面をテレビで見ていて、はっとした。家族の者たちが寝入っているとき、ひとりさびしく彼女は死んでゆくのだが、私の母のときと状況は似ている(映画では家族の者たちはけっこうたくさんいるのだが)。しかしその後、映画は淡々と進んでいき、そのことで私はさらに驚いた。


家族の者たちが寝入ってしまったときに、患者は息を引き取った。しかし、そのことで、誰も大騒ぎしなかった。眠ってしまって悪かったとか、眠った誰々が悪いとか、声も掛けられなくてさびしかっただろうねと死んだ患者に詫びたりもせず、また看護師もそのことでなにかあわてふためいて騒ぐこともなく、すべてが淡々と進んでゆく。まるで日常化した自然現象のように。たとえば玄関から外へ出たら雨がふっていた。あっと気付いて、傘を取りに家に入った。それくらいになにごともないかのような出来事だった。つまり、そんなとき雨が降っていることを気付かなかったお前が悪いとか、傘を用意していなかった私が責任をとるべきだとかいうようなことを話しても全く無意味だし、そもそもそういう話など出るはずもない、なんでもない出来事ということだ。


その映画の場面は、「付き添いの者が家族が眠っているあいだに病人が死ぬことは、ごくふつうのことであって、そのことについて悩んだり、責任を感じたりすることは、意味がない」、と、そんなふうに私に伝えてくれたように思えた。それほど、淡々としていたのだ。


まあデブラ・ウィンガーも、その後、気付かれぬうちに引退して、彼女を探すドキュメンタリー映画もできたくらだいだが(そのかいあってか、彼女は映画に復帰したが)。


板橋老人医療センターから電話がかかってきたのは7日の夜、9時前だった。当直医師からの話では、入院中の伯母(私が身元引受人になっている)が夕方くらいから呼吸困難になってきて、現在、酸素吸入中だということだった。当日の朝までは、元気だったのだが。またそろそろ退院ということも考えられていたのだが……。当初、確認していたように、高齢でもあるので延命治療は行なわないことを、もう一度確認したうで、医師は、容体急変の場合、どれくらいで駆けつけられるかと聞いてきたので、まあ、夜だから終電以後、タクシーがつかまればの話だが、1時間以内にはなんとかなるというふうに答えた。しかし、いくら物分りの悪い私でも、これは要するに「今夜が山だ」ということ、脱暗号化すれば、「今夜、死ぬだろう」ということではないかとわかってきた。念のために聞いてみた。「今夜、なんとか乗り切った場合、明日以降、伯母はどうなるのですか」と。「明日のことはわからない」という答えたが返ってきた。もちろん私はすかさず返事をした。「では、これからまいります」と。


伯母は深夜すぎか、明日の朝頃に、臨終を迎えるのではないかと予想した。実は、その日は、私自身、体調不良だったのでだが、ろくに食事もしていない。そこで明日の朝までに、長くなりそうだがと、駅前のコンビニでおにぎりと飲み物を買った。


老人医療センターに到着したのが9時50分くらい。看護師が待っていて、すぐに伯母がいる個室に通された(それまでは六人部屋だった)。医師が二人いて、病状の説明を受けた。伯母は酸素吸入を受けていたが、すでに呼吸は9時30分に停止しているといわれた。連絡したが、出かけられたあとで、すでに留守だったとも。伯母に声をかけようにもすでに意識もない。私が「わかりました」と答えたのをうけて、医師は、おもむろに、酸素吸入機のスイッチを切った。そして時間を確認した。「9時59分です」と。

*1:1983, dir. James L. Brook.