そんなことで逃げられるか

*そんなことで逃げられるか
『300』(映画編)


手術前に映画館でみる映画がこれというのも、なんだか変な話だが、まあしょうがないか。昨日が『女帝』で本日が『300』どちらも血なまぐさい映画だが。


『300』に映画かれたペルシア軍の描かれ方にイランが文句をつけたのは、わからないわけではない。というか当然のことである。


なぜならスパルタ軍は人間であるのに対して、ペルシア軍は、もう人間ではない。怪物軍団であり、人間が含まれていても、異形の民であり、ノーマルな人間の姿をとどめていない。総大将のクセルクルスなどは、身長が5メートルはあろうかという怪物で、人間ではない。


いまこの時期にペルシア/イランを悪魔・怪物化して描こうとすること自体、強く政治性を感じるのだが、しかし、この映画には、一応、口実めいたものが用意されている。


映画は、テレモピュライの戦いを生き残った一人が、レオニダスらの奮戦と全滅を、ギリシア全軍に対して語るという設定になっている。それはギリシア軍とペルシア軍の再度の決戦前夜という設定で、ときおりレオニダスらの行状を語るディリオスの映像が入る。


この生き残りディリオス(脱走したわけではなく、負傷したためレオニダスから戦列を離れて戦いを語り継ぐように言われるのだが)に扮するのはDavid Wehnam、映画『ロード・オヴ・ザ・リング』を観たことがある者なら、彼がファラミアであったことを忘れることはないだろう。そう彼の登場によって、『300』は『ロード・オヴ・ザ・リング』を髣髴とさせる。


そして『リング』で、人間の敵となる化け物軍団は、たとえば第三部「王の帰還」では、象に乗ったりしていて、明らかにアジア・アフリカ的世界が、反人間・非人間的世界として悪魔化されていたのだが、しかし、それはまたファンタジーでもあって、見てみぬふりをすることができた。


しかし『300』では、ファンタジーとはいえ、一応、歴史物語である。つまり場所と名前が、現実に存在するか、存在したのである。となると敵は、アジア勢となり、そのアジア勢は怪物軍団となって、人間性を奪われてゆく。もはや見てみぬふりはできなくなる。ペルシアあるいはアジア軍を、人間ではないものとして描くのは許しがたい差別ということになる。


だからこそ、私たちが『300』で見ているのは、ディリオスが会戦前夜、ギリシア軍を鼓舞するために、レオニダスの奮戦を語るとき、いつしか敵側が怪物に仕立て上げられたということになる。語り手の、誇張と価値観というフィルターを通しての物語だから、敵が必要以上に怪物化されるということになる。


またディリオスの語りが終わったとき、かつては300人しかいなかった軍勢がいまは大地を埋め尽くす連合軍となって、敵に対峙し、これからいよいよ突撃するということになる。このときカメラは、進軍するギリシア連合軍を正面から映しているため、彼らの敵、つまりペルシア軍が(ほんとうは)どんな姿をしているのか最後まで映し出されることはない。レオニダスと戦った化け物ペルシア軍はあくまでもファンターの誇張の産物であるかもしれない。だから、目くじらを立てられても困るという、逃げがうってある。


だかそんなことで逃げられわけがない。