Komm, süsser Tod Day 1

(火曜日)
前日は、病院でもらった食事パックで一日すごし、夜は下剤によって消化管を空っぽにすることが求められた。


当日、9時に病院に来るようにと言われたので、妹と病院で、8時50分くらいに待ち合わせた。当日、あたふたとして準備に時間がとられたので、遅刻しそうになったが、それでも地元の病院なので、電車にのって駅2つで8時47分くらいには、病院のロビーに着いていた。すでに妹は待っていた。妹は都合により、8時には病院に到着したとのこと。そのままベンチで一眠りしたところだということだった。


9時に外科の受付に赴くと、そのまま3階の外科病棟へ案内され、外科部長で病院長長の説明を受け、入院手続きをすます。病院長からは、どんな簡単な手術でも危険をともなうなどの注意を受ける。手術後は経過がよければ、今週中にも帰ることができるというような説明を受けた。だったらありがたい。


個室を予約していいたので、個室へ通され、T字帯を購入して、それをつけるように言われる。妹が売店で買ってくると言ってくれた。ただしいま最初の手術がはじまっているので、お昼頃に声がかかるからといわれ、それまで妹と個室の病室で待つことになる。


待っている間に、検査とか、点滴用の管をつけられたりと、看護師によって着々と準備が進む。2時間以上待っていたことになるが、その間、時間をもてあますとか、いらいらするということはない。T字帯とはどういうものかわからず、着けかたもわからないので、これまで手術経験者でもある妹に説明してもらう。まあふんどしみたいなものだが。


12時頃に呼ばれて、同じフロアの端にある手術室へ向かう。手術室区画の入り口のすぐわきに小さな部屋があり、そこで家族の者が医師から説明をうけるらしい。私は出迎えに来た医師と看護師とともに歩いて入る。


なかはいくつもの手術室に別れていて、私はその一つに案内される。周りには手術機器が山のように並び、工場のような雰囲気がある。ベッドに案内され、仰向けに寝かされる。その間、周囲では着々と準備が進む。手術は初めてだが、ただなすがままにされるしかない。軽い手術であることはわかっている。


点滴の管から麻酔剤を注射するといわれる。麻酔が入ると腕が「さわさわ〔ざわざわ、だったか〕します」といわれ、どういうことかわからなかったが、たしかに「さわさわした」。目の前には、麻酔ガス吸引用の透明マスクが鼻先にある。それが近づいた。そしてブラックアウト。


声をかけられたような気がしたが、目が覚めると、周囲であわただしく作業がつづいている。暗黒の沈黙から、次の瞬間、あわただしい喧騒の中に放り投げられた感じがして、一瞬、状況についていけず。手術が終わってこれから私の搬出作業がはじまるということがわかった。手術台から移動式ベッドに移された。そしてそのまま手術区画を抜けて、ナース・ステーション脇の部屋に連れて行かれる。


母は、私が子供頃の、子宮筋腫の手術を受けた。その時、母は、手術中は麻酔が効いているので、痛くもかゆくもないが、手術が終わって、麻酔が切れると、傷口が痛み、とても苦しかったということを話しくれたことがある。子供心に、手術は、あとが痛い、手術は怖いものだという気がした。


母の二度目の手術は大腸癌の手術だったが、それは癌の周囲の臓器をごっそり摘出する大手術だったが、母は、手術後、そんなに痛がらなかった。むしろ手術後、予想外に痛くないとわかり、安堵とともに、これで癌から解放されるのではないかという希望もあって、かなり興奮状態となり、個室でその夜、母と語り明かしたことを憶えている。私としては、手術後だから、眠ったほうがいいし、疲れているだろう言ったのだけれども、母は疲れを知らず、明け方まで、いろいろなことを語り明かした。ある意味で、それは私と母にとっても、珍しく幸福な一瞬だったかもしれない。


母の子宮筋腫の手術はいまから40年前のことであり、大腸癌の手術はいまから10年前くらいのことで、その間、医療の進歩ということもあり、手術後の痛みはないか、軽減されたのだろうと予測した。


ところが私の場合、ブラックアウト後、目が覚めたら、痛い。麻酔中に、鼻から管を胃まで入れたらしく、さらにはチンポコに管が入っている。このチンポコの管は気が重くなる。ほかにも小さな管が右の胸の下に入っている。体に開いた幾つかの穴が痛い。開腹手術ではなく、穴を開けて内視鏡を入れ(正確には腹腔鏡とかいうらしいのだが)、リモコンで、胆嚢を取り、胆石を摘出するので、手術後の回復も早いと思われている。たしかにお腹を切ったわけではないのだから。


しかし、その小さな穴(もう閉じてはいる。へその下の穴以外は、縫われてもいない)が、痛い。その痛さは、咳とかくしゃみができないくらい痛い。くしゃみでもしようものなら、失神するぐらいの激痛が走るのではないかと思える。またベッドでレントゲンのために、体をすこし動かす必要もあるが、それも痛くて、自力ですこし体を動かすのも、困難だった。


結局、母が最初の手術に感じた痛みと同じものを、私は感じているということがわかった。ならばあの大腸癌手術のとき、母が痛がらなかったのは、なんだったのかと不思議に思えてくるのだが……。また担当医が下手だということもないだろう。開腹手術と違って、穴を開けるだけだから下手も上手いも関係ないだろう。


手術後、ナース・ステーションの横の病室で、ベットに横たえられ、そこで病院長の説明を聞いた。手術は無事に終わって、胆嚢を摘出し、胆石を二個摘出したといわれた。妹も側にいて、うなずいている。そこから、これから入院中毎日聞かされる説明が続いた。最初は何のことか、わからなかった。


お腹に穴を開けて、空気をいれ、お腹のなかを膨らませたとき、そのときどうも迷走神経を刺激したらしく、私の心拍数が少なくなってきた。それで急遽、心臓マッサージをしたといわれた。その時は、話がよくのみこめなかったのだが、要するに、私は心臓が止まりかけたということか。


心臓マッサージをすると、肋骨にひびが入ったり、肋骨が折れたり、肺が傷ついたりすることがあるいわれ、それはこれからレントゲンを撮ればわかるといわれた。え、そうか、穴を開けたところ以外にも、なにか締め付けられるような痛さが残っている。これだと胆石の発作のときとあまりかわりがない。手術前よりも体全体が痛くなっていて、どうしようもない。


ただ、この余分の痛みは心臓マッサージのそれだとしても、それを差し引いても傷口が痛い。


いや、待った、と、ここでことの重大さに気付いた。そうか私はもう少しで死ぬところだった。死んだら、周りにいろいろ迷惑をかけるだろうが、同時に、早くしねばいいと思っている連中も多いだろうから、迷惑をかける、かけないで相殺すればゼロ状態だろう。それはともかく、私は、楽に死ねるチャンスを逸した不幸に思わず慄然とした。


手術前にどんなに軽い手術でも危険をともなうと言われたが、話を聞いている側とすれば、「危険」よりも「軽い手術」ということを記憶にとどめたのであって、危険性など、ましてやよもや死ぬとは思っていない。たとえ痛くなくても、死ぬかもしれない恐怖があるのは苦しい。危険な大手術で、死ぬ場合、死ぬ苦しみはなくても、麻酔前に死ぬかもしれないという不安なり恐怖があると、嫌なものだ。今回は、死ぬという恐怖はまったくなかった。ブラックアウト状態のままで、そのまま死んでいたら、まさに何の不安も苦しみも苦痛もない安楽死だった。この安楽死を、私は手にいれることができなかった。神に感謝すべきなのかもしれないが、私は、神を呪った。いやほんとうは、楽な死に方というのは、めったないから、落胆の気持ちは大きかった。


翌日、妹に聞いたことによると、手術後、妹は、医師から説明を受けた。心臓がとまりかけたことと同時に、患者は、3月以降も、一度発作を起こしていて、炎症を起こしているにちがいないと言われた。そのとき妹は、それはそうにちがいない。6月に入って、発作めいたものがあったと兄は言っていたが、そのとき入院中の伯母(兄が身元引受人だった)が死亡し、葬儀などで病院に行けなかったにちがいなと答えたという。医師は、その話をきて、う〜んとうなったきり、とくに話題にしなかったという。


事実、入院中には、2度目の発作について医師から言われることはなかったが、そのことは詳しく医師に説明すべきだったとは悔いが残る。しかし、そうなるとまた手術が3ヶ月延びるのは嫌だという思いもあった。また手術前に精密な検査を行なうので、問題があれば、その時に待ったがかかると予想したのだが、私の考えが甘かったのかもしれない。