Day 2

(水曜日)
手術の当日、妹は、一晩、病室で看病することを覚悟していたという。まあ、軽い種々だからそこまでしてもらっては悪いし、私としては帰ってもらうつもりだった。また手術後、個室ですごす予定が、心臓がとまりかけたこともあり、個室で様子を見るのではなく、ナースステーションの横の病室で様子をみることになったので、妹としては、泊まることができなくなった。結局、手術が終わった4時頃に、妹は病院をあとにした。


手術は3時間以上かかったが、これは通常の手術時間らしい。妹が帰ったあと、私は、あとは安静にするしかなかった。


またチンポコにさした管は気になったが、看護師に、「小便がしたいのですが、どうしたらいいのですか」と尋ねたら、「あら、もう出ています」という答えが返ってきて恥ずかしかった。チンポコの管から尿が垂れ流し状態になっていることを、初めて知った。


深夜、次の日を迎えた。


私のベッドの左横には、私のあとに、女性の患者が運ばれてきて、癌の手術のあとらしい。病室には、その中年か初老の女性の患者と、私としかいなかったのだが、深夜(時間はわからない)、運ばれてきた老人の女性の患者が、あきらかに認知症で、病室全体が大騒ぎになった。


その老人の女性は、話し声が人一倍大きい。まあ耳が遠いからしかたがない。そして印象的だったのは、看護師から名前を尋ねられて、答えられなかったこと。しかも、それが、たとえば、「わかりません、すみません、思い出せませんとか、忘れました」とうなだれるようなそういう答え方だけなく、まず相手の質問を大声で確認し、繰り返し、べつの話題にもっていき、話をそらし、時々、思い出そうとして、また話題をかえるとうい具合に、答えられないという事実にすら直面していない。ただ、最初は、面白がっていたものの、だんだんいらだってきている看護師ほどに、私は、いらいらしなかった。むしろ認知症の人の特徴をあらためて確認しつつ、なんとなく先日亡くなった私の伯母が、私を責めているような気がしていた。


私の祖母も最後には認知症になったが、認知症の特徴のひとつに(それがすべてではないのだが)、とにかくハイテンションであることがあげられる。その病室に運ばれてきた女性も、一時騒いだ後は、静かになって眠るのかと思ったら、ますますハイテンションになって、結局、その病室から運び出され、ナースステーションに隣接している部屋ではなく、ナースステーションそのものに運び込まれたようだが、それで疲れて眠るかと思うと、騒いでいる声がかすかに聞こえてくる。逆切れしている感じもする。結局、一晩、眠らずにハイテンションで起きていたようだ。


その間、見舞いにきた家族は、疲れ果てたようだし、看護師も世話でかなり疲れたようだ。看護師からも、昨夜はすみませんねと、私は謝れられたが、しかたないなと思いつつ、憎しみは湧いてこなかった。


その夜、眠れなかったのは事実である。しかしその老人の女性が認知症で騒いでいなくても、眠れなかっただろう。というのも、血栓予防のために、手術前に靴下をはかされるのだが、手術後さらにマッサージ機を付けられる。このマッサージ機、最初は看護師が素手で私の足や足首をマッサージしているのかと勘違いするくらい、人間の手の感触に良く似ている。しかも一定のリズムというよりは、なにか不定期に動いて、足を揉んでゆくのだ。それに作動するとき音がする。というのことで、うとうとしようとすると、突然、強く足を揉まれ、またうとうとすると、また揉まれの繰り返しで、はっきりいって眠れたものじゃない。よほど、疲労していればべつだが、また機械的な刺激なら、それになれて逆に睡眠効果も生まれるはずだが、この足揉み機、眠らせてくれない。


ということで、その晩は、その老人の女性がいなくても、眠れなかったはずだ。


と同時に、その老人は、私の伯母を思いださせて苦しい思いがした。伯母も今年になってからは、いや昨年からか、自分の名前がわからなくなっていた。正確にいうと、名前を聞かれると、結婚前の名前を答えるのだった。私のことも、誰なのか、わからなくなっていた。そして認知症になっていて、最後に入院しても、看護師や医師を相当てこずらせたにちがいない。ちょうど、私の横に運ばれてきた老人の女性のように。


またその晩、家族の者が早々と帰ってしまったり、翌朝、あらわれても、どこで待っているのかわからなくなって、家族が面倒を見てくれなくては困ると、看護師がいまいましそうに、こぼしているのを聞くにつけても、私自身、伯母のことで、そんなふうに言われていたにちがいないと、どうしようもなかったとはいえ、反省もしようがないのだが、苦しい思いにとらわれた。


伯母は最初、板橋中央総合病院の救急病棟に運ばれたのたが、入院したその日から、帰るといいはじめた。伯母は自分が病気で入院していることすらわからなかったらしく、また救病棟の看護師たちも、老人患者がいるにもかかわらず、認知症の老人の世話にはなれていなかったようで、相当てこずったにちがいない。家族の者が、朝から晩までつきそっていればいいのだが、私は、仕事もあってそうもできない。それに、私は胆石をかかえて、無理のできない状態だった。


いいわけを続けても始まらない。本来なら、家族がかわるがわる付き添って、認知症の伯母の面倒をみるべきだったのだが、家族は、私しかない。だったら私がすべてを投げ打って、朝から晩まで、伯母に付き添えばよかったのだが、それが出来ない。病院側でも家族の介護に依存するしかなく、かといって私も、なかなか行きづらくなり、困った病院側では、伯母に大量の鎮静剤を飲ませるか注射して、一日中眠らせることしかしなかったようだ。この治療と介護の放棄は、問題になるのかもしれないが、私とは病院を責めるつもりはないし、病院側としても、家族の協力がない状態で、それができるせいいっぱいのことかもしれない。伯母としては、苦しい思いをしたかもしれないが、しかし、同時に、なかば夢を見ている状態での苦しみなので、悪夢にうなされている人は、苦しいだろうとは思うけれども、ほんとうのう苦しみではないという気もする。こちらの気休めかもしれないが。


そして鎮静剤を大量に打たれる前の伯母の暴れぶり(とはいえ98歳の老人が、あばれるといってもたかがしれるが)またコミュニケーションのとりずらさは、いま私の横で騒いでいる認知症の老人の女性と、そんなにかわるいことがなかったにちがいない。


その老人の女性とは、ベッドがカーテンで仕切られているので、顔はまったくわからなかたし、これ以後、その女性のことを耳にすることもなくなったのだが、もし顔を見ることができたなら、その顔が、いつのまにか死んだ伯母の顔に変わってしまうのではないかと、そんな気がした。



***


二日目。医師から説明があり、レントゲンの結果、肺の損傷はなく、肋骨も折れていないと言われた。肋骨にひびが入っているかもしれないが、それは自然に治るといわれる。


また迷走神経の話を、あらためて聞かされ、事態の重大さに思い至るが、まあ、あとから言われても、後の祭りで、私にもどうしようもない。


朝食はもちろんないが、その時間帯を過ぎると、検査のあと、私の病室にもどる準備がはじめられた。私の右の胸には、小さなプラスチックの管が刺さっていた(自分では気付かなかった)が、それはあっけなく抜かれた。鼻から胃の中にはいっていた管も抜かれた。そしてついに私が一番恐れていた瞬間がきた。


チンポコの管が抜かれるのである。看護師が、私に、大きく息をしてくださいという。たぶんそれで注意をそらし、気が緩んだときに管を抜くのだろうと思った(それなりの効果があるのかもしれないが、専門家ではないので、なんともいえない)。そうして看護師が一気に管を抜いた。おもわず、「うっ」とうなり声が出てしまった。


移動ベッドで、運ばれる途中、看護師二人が、住んでいる場所、川越と所沢の悪口を互いいに言い合っていて、私にどう思うかと聞くのだが、ふうつでも気のきいたことは言えない性格なのだが、今回は、痛みが加わったので、ただ笑って答えるしかない。とにかく体が痛い。


個室で落ち着いた頃、妹が見舞いに来た。昨日は、一晩、介護しようと思ったが、心臓マッサージの件もあり、自分の居場所がなくなり、帰るしかなかったという。いや、それで問題ないと答えて、無理はしなくていいというが、前日、手術前に、2時間くらいあれこれ雑談していたのとはちがって、一日たつと、話がはずまない。というか痛くて、私がつらくなってきた。結局、妹に冷たいようだが、帰ってもらった。妹のほうも、私の具合がまだ本調子ではないことがわかって、早々に退出したほうがよいと判断したようだ。


妹は、私に、手術のあとは確かに痛い。しかし、一時間たてば着実に痛みは少なくなっていく。二時間たてばさらにというように、時間がたてば痛みはなくなってゆくので我慢するしかない、と。痛みがずっと続いたり、痛みが激しくなるようなことはないので、とにかく我慢していれば、なんとかるということだった。それは、あたりまえのことだが、私は勇気付けられた。


あと書き忘れたが、胆石2個、透明な円筒形の錠剤ケースのようなものに入れたのをもらった。色はウンコ色である。つまり人間のウンコの色である、胆汁の色がついている。表面は、やや不規則ながら、幾何学的な模様が付いている。私が自分でつくった、唯一まともなものかもしれない。