To have or To Be


復帰第一弾。
本日から社会復帰をすることになった。とはいえ本日、日曜日、大学院生(修了生を含む)との月一の映画会。先月は私の入院のため、実現できず、7月1日に延期になっていたもの。場所は渋東タワー(「渋東」をなんと発音するのかわからず。案内のメールには「渋谷タワー」とあったが、もちろんミス表記)。映画は『舞妓Haaaan!!!』。


この映画会で、私は映画を選択しない、そうでないと好きな映画に偏るからと、院生に作品選択をまかせたのが失敗だったかも。娯楽映画を観る懇親会と化してきていてよくない。渋東タワー(読み方がわからない)の少し先にいくと渋谷の「シネマ・アンジェリカ」があって、そこでは『殯(もがり)の森』を上映していたはずだが。


舞妓Haaaan!!!』に関しては、先週、『ダイ・ハード4.0』とか『パイレーツ・オブ・カリビアン』といった大げさすぎるスペクタクル映画をみてうんざりしていたので、ナンセンスな笑いのなかにも、ほのぼのとしたものがあるのではと期待したのだが、今、引き合いに出した二つのスペクタクル映画に負けず劣らずの大げさ誇張ぶりにちょっと驚き引いた。


まあ物語りは「人生すごろく」と思えば(この暗示は映画の中にほんのわずかしか出てこないが、パンフレットには「人生すごろく」が付録についてくる)、なるほどというしかない。「人生ゲーム」とか「すごろく」というのは、ゲームという虚構の場のなかで許されるきわめて荒唐無稽なものであることが、物語化して示されることでよくわかる。あと植木等が出演していたが(遺作となった、合掌)、無責任男の、とんとん拍子人生と主人公のそれとは重なりあうとみることもできる。だから、あれよあれよというまに、すべてが成功し、なりあがるという、荒唐無稽な映画の大げさぶりも、まあ納得できないわけではないが……いや、納得できるか!


いや京都の舞妓についての薀蓄と、ナンセンスなギャグと、ほのぼのとした物語を期待して、見事に裏切られたというほかはない。阿部サダヲのハイテンションぶりは、予想どおりだったにすぎない。


しかし驚きは映画の最後にあらわれる。この映画のなかで、美しい舞妓は、誰だったのか。女優たちも、白塗りの厚化粧をすると見分けがつかなくなり(酒井若菜については、言われるまでどこに出ていたかわからなかった(これは褒めているつもりだが))、さほど美しさを感じないケースもあった。そんななかで一番美しい舞妓、それは主役の阿部サダヲと彼のライヴァルとなる堤真一のふたりの舞妓姿である。映画の最後で、二人は舞妓の姿になって舞台にあがり、そこで踊る。遠目でしかないが、二人の姿は、他の舞妓たちをしのぎ、その美しさに感嘆した。だが


え、それはおかしいのではないか。欲望の二形態からすると。


欲望の二形態、それは「所有の欲望」と「同一化の欲望」であった。つまりTo haveの欲望と、To beの欲望。


たとえば私が異性愛男性としよう。私は女性を恋人なり妻として持ちたい。またすばらしい女性と結婚することで、同じくすばらしい女性と結婚していた、私の友人や先輩の男性と同列に並んだ、つまり彼らと同一化したことになる。あるいは、すばらしい女性をパートナーとして持っている男性たちと同一化したいがために、私は女性を所有したいと思う。このとき他の男性と同一化せんとする私は、同性愛者ではない。所有の対象を女性にしているからだ。


簡単にまとめよう。
異性愛男性の欲望は、女性を所有し、男性と同一化すること。
同性愛男性の欲望は、男性を所有し、女性と同一化すること。


所有の欲望と、同一化の欲望は、共存しうるが、対象に対しては拮抗的に働く。つまり異性愛男性である場合、女性を所有しようと望むが、女性と同一化しようとは思わないのである。


単純すぎる図式だが、これを『舞妓Haaaan!!!』にあてはめるとどうなるか。


阿部サダヲは、舞妓ファンであり、舞妓といっしょにお座敷で遊ぶ、あるいは舞妓と将来結婚するというのが夢だった。そのときライヴァルとなるのが堤真一だが、常に一歩先をゆくこのライヴァルに対して阿部サダヲが仕掛けるのは、同一化競争である。つまりライヴァルの堤と競争を通して一体化することが目的となる。あるいは堤真一が持っているものを、阿部サダヲも所有したいと思うのだ(堤真一がもっているもの、それはラカン的にいえばファロスである)。


しかし最後にいたってこの関係が崩れる。堤真一阿部サダヲも、舞妓となって舞台で踊るのだ。つまり舞妓を所有しようとしていた二人が、舞妓になってしまう。まさに所有の欲望の対象が、同一化の欲望の対象になってしまう。図式的にいえば、舞妓を求めるのではなく、舞妓になった彼らはゲイである。


そういうことだったのかと、納得。阿部サダヲ堤真一も、女を愛せないで、女と一体化したい男たちだったのだ。そういうことだったのか。