格差社会


以前、テレビを見ていたたら、私の大学の学長(正式名称は違うのだが、一般的には学長といったほうがわかりやすい)が出ていた。住まいやライフスタイルをすこし紹介していたが、りっぱな家に住んでいるものだと感心した。


学長のあの豪邸と、私が住んでいる家とは、なんのつながりもない。なんの共通点もない。これって大学内の格差社会だ、としかいいようがないではないか。


そんなことを思ったのも、選挙の争点のひとつかもしれない格差社会問題を扱っていたあるニュース番組をみたからである。番組は、ネットカフェで暮らしている30歳台の男性を取材していた。ネットカフェというのを利用したことはないのだが、映像をみているうちに、なんだか親近感が湧いてきた。


あの学長の豪邸は、私には別世界で、私の住まいと完全に断絶していたのだが、三方を衝立で囲まれ、机の上にあるコンピューターの端末と大きめのリクライニング・シートがあるネットカフェの空間は、いまコンピュータを前にしてこれを書いている私の狭い仕事部屋(書斎などというものではない)と明らかにつながっている。


もちろん、ホームレスで、その日暮らしの日雇い生活で、まさにネットカフェ難民の男性にくれべれば、自分の家がある私はそれだけでも幸せ者だ。そんな自分と引き比べて、他人の不幸を喜んでいるわけでは決していない。その日暮しで何の夢も希望もなく家族もいない三十歳台の男性が、今後、満足のゆくかたちの職業と住居を手にいれることを、私は祈るしかないが、それにしても、コンビにで買ったおにぎりとお茶をもってコンピュータの前に座り、夜も更けて疲れてきたら(私の場合は、仕事とか作業に疲れてだが)座ったまま眠る。家族もなければ希望もない。まったく同じ生活だ。


その男性は、へたをすれば、格差社会の底辺で野垂れ死にするかもしれない(実際、その一歩かもしれないが)。私だって同じようなものだ。それに、狭い仕事部屋に積み上げている本は、本というよりもゴミの山、ゴミ屋敷に住んで周りに迷惑をかけている人間の気分になっている。