エクソダス


最近、翻訳に追いまくられて、息つく暇もないが、予定より1ヶ月以上遅れて、本日、脱肛した、いや脱稿した。もう出版予告が出ているらしいのだが、怖くて見れない。


ただ、ほんとうにぎりぎりながら、なんとか仕事をひとつこなしたので、すこし気が楽になった。


昔は、出来上がった原稿を手にして、電車に乗り、編集者に会いに行き、待ち合わせの喫茶店で、運がよければ先にいって、原稿に最後の手直しをするということもあったのだが。もちろん私は、売れっ子の作家というわけではないので、編集者が取りに来てくれない。またそもそも自分の家に人を入れるのは好まないから、自分でもってゆく。とはいえ、私のいつものことで、原稿は遅れに遅れるから、駅の近くの喫茶店まで、来てもらうこともよくあったが、それも今は昔である。


なんとか朝までに完成して送ると約束したので、あと1時間待って欲しいとメールを入れて、1時間後に、添付ファイルで送信。それで終わり。あっけないものになった。


メールでは、原稿の遅れをお詫びしつつ、「ほんとうにいま出来上がったばかりで、見直す時間もなく、湯気がたっているような原稿ですが、ゲラでしっかりチェックしますから、よろしくお願いします」と書いた。


「湯気が立っている」というのは、出来立ての料理というイメージとして受け取られることを私は願っているが、ほんとうのところは「うんこ」のイメージである。


いや、今回の翻訳は、便秘気味の人間がトイレでうなりながら糞を出すような、そんな難行苦行を強いられた。最後に、どかっと原稿を全部渡すのではなく、少しずつ、出来たところから渡すので、まさに、便秘。ちびりちびりとしか出ない。


そもそも今回の翻訳が、まるでヘンりー・ジェイムズの文章のように、息が長く、のたくっていて、それがつづくものだから、うまく訳せない。リズムが最後までつかめないまま終わっている。まさに便秘状態でしかない。私としては、おそらく編集者も、浣腸でもして、どっと一気に原稿がでることを期待したのだが、それも無理だった。


汚い喩えで申しわけないが、むしろ、そんな「うんこ」を読者に食わせるのか、いや、読ませるのかと叱られそうだが、たしかに現時点では、まだウンコだが、これから短期間とはいえ、徹底的に手を入れるので、最終的には、「うんこ」の原型はとどめていないだろう。


いや、そもそも翻訳とは、ウンコをだすようなものだ。原文を食べて、それを咀嚼して消化して、自分の言葉に置き換える。きわめて知的な作業のように思えるかもしれないが、同時に、便秘のように苦しい。翻訳は、ゼウスから生まれたアテネのように、頭から生まれるもと考えられているかもしれないが、ほんとうは、ディオニュッソスのように、ゼウスの尻から生まれたウンコではないかという気もしている。


このアナロジーをもう少しつづけてもと思ったが、ウンコの比喩に自分でもきつくなったので、このへんでやめる。