誤訳の地図

私は「うつ依存症」の女』のDVDが見つかった。アール・グレイのシーンを見直してみると、私がうろ覚えであったことが判明した。


クリスチーナ・リッチが恋人とのデート中、男が別の女と親しげに話したことに嫉妬して、先に帰ってしまう。後日、カフェかどこかで恋人と話している。彼女は、恋人の男性の行動を非難する。彼は、それには気付かなかったと、詫びる。彼女の顔それも大きな片目が大写しになる。つぎに紅茶のカップを上から映す。丸い。そこにミルクが注がれる。


「イッツ・アール・グレイ!」と彼女がいう。悪かった、もう一杯注文するよと彼が言う。紅茶のことでかっかするな。馬鹿みたいだろうと彼が言うと、リッチが運ばれてた紅茶のカップをなぎ払い、カップは床に落ちて割れる。彼女は立ち上がって出て行く。男が後を追う。


いずれにしてもアール・グレイにミルクを注ぐのは、無神経な行動というように捉えられている。


この映画でもうひとつ思い出した。映画の最初のほうで、主人公の女性が母親との関係をふり返るナレーションがある。初潮の頃、パンティに血がついているのをみて、母親が「これであなたも終わりね、トラブルがはじまるわ」と語ったことを彼女は思い出す。この日本語の字幕はけっこう衝撃的だった。つまり初潮が来て、大人の女性になったことに対して、母親は、娘を祝福するどころか、「あんたはもう終わりだ」と女性性を呪うのだから。しかし、その時、わたしの耳は “your period”という英語をちゃんと聞いていた。


日本語の字幕を無視して、英語を聞いてみると(英語の字幕は収録されていない)、母親は “O hell, your period. This is where all of your troubles start.”とかなんとか、娘に語ったのである。日本語の字幕は、これを「あなたもこれでおしまいね。トラブルがはじまるわ」と訳したのだ。Periodに「初潮」の意味があることを知らないのである。さらにいうと、月経のことをWoman’s troubleという。したがって、ここの意味は「ああ、それは初潮だわ、これから毎月月経で悩まされるのよ」くらいの、ごくありふれた表現で、面白いところといえば、そういうふだんは公けの場では出てこないプライヴェットな母娘の会話を、ナレーションで暴露していることぐらいか。事実、そのシーンでは、どういうわけかクリスチーナ・リッチは上半身裸であり、母親もそのことを問題にしない――ちょうど夏パンツ一枚で歩くオヤジの姿を家族の者は問題にしないのと同じことである。


なお私は原書をもっていないが、翻訳では、その部分が「初潮を告げると、母は「あら、やだ」とひとことつぶやき、「これからが厄介ね」とか何とか言った。」(p.30)とある。参考までに。ちなみにこの翻訳には、「マルクスフェミニズムによる聖書の悪質論」という、わけわからぬ表現があって、すくなくともハーヴァード大学の文学専攻生の知的レヴェルには達していないように思われる。


さて、映画の日本語字幕の誤訳だが、たしかに誤訳としかいいようがないが、問題は2つある。


ひとつは、これが「誤り」なのかどうかということである。もしperiodという単語を、別の単語として読み間違えたら、それはまさに「誤り」である。実際、そういうミスは、私自身もよくすることがあって、いつも冷や汗をかいている。あるいはその単語に、ありはしない意味を想定してしまったら、これは誤りである。つまりある単語について、辞書で調べる=確認する行為を考える。そのとき単語を認識しそこねたり、辞書の意味をとりちがえたり、辞書にない意味をもってきたら、それは誤りである。


しかしこの「初潮」の場合、periodの意味は、だいたい知っていても、「月経」という意味があることを知らなかっただけである。だから辞書で調べてもいない。逆にいうと、最初から知らなかったらなら、辞書で調べるからよかったものの、なまじ部分的に知っている単語だから、辞書で調べる必要がなかった。知っていたのでる。そして知っている範囲で意味をつけた。これは誤りではないのである。


赤信号のなのに進んでいたいたら、過ちだが、青信号で進んでいたら、突然、横からぶつけられたという場合、アクシデントであっても、誤り、過誤ではない。そうなると、「period」をこの文脈で「おしまい」と訳すのは、明らかに誤訳なのだが、しかし訳している当人からしてみれば、アクシデントなのである。翻訳者の悲哀とは、たとえアクシデントでも、責任をとらされることである。


翻訳の怖さは、自分が知らない単語を前にして訳し間違えることよりも、知っている単語に、自分の知らない意味があって、それに気づかないときである。見えない恐怖といってもいい。アクシデントへの恐怖といってもいい。知らないうちに、犬のウンチをふんずけたといってもいい。ギリシア悲劇の用語を使えば、「ハマルティア」である。


もうひとつの問題は、誤訳のほうがかっこいいことである。先の月経の例は、誤訳のために強烈な意味を帯びることになったが、もともとは、かなりありふれた表現であって、刺激性や強烈さとは無縁である。むしろローテンションの表現を、誤訳はハイテンションに訳してしまった。くりかえすが、その誤訳のほうが面白いのである。


「月経がはじまる。これから毎月の処理がめんどうだわよ」という母親のありふれた言葉に対して、月経がはじまる、大人の女になる。「もうおしまい」なのだ。なんというすばらしい言葉、なんという悲観と呪詛。人生の始まりに地獄におちる女の宿命。こんなすばらしい台詞がこれまでにあっただろうか(私は女性を呪っているのではなく、何であれ、こんなふうに呪われるとは、すばらしいということなのだ)。誤訳だからこそ、こんな表現に遭遇できるのだ。翻訳の奇跡なのである。翻訳の奇跡はしょっちゅう生まれる。