真景累ケ淵 1

6日は恒例の月一の映画会だった。この時期、通常の映画館でロードショー上演をみようにも、西遊記だの、ハリポタだの、ねずみが料理するアニメなど、オジサンが見る映画はない。そんななか『怪談』は唯一、中高年でも見ることができる稀有な映画である。


いつもは日曜日が多かった映画会だが久しぶりにウィークデーなので、ちょっと感じが違う。映画館はピカデリー2。西銀座デパートの近くで、本日から発売のサマージャンボ宝くじの行列に巻き込まれそうになって、あわてる。


また帰りも、月曜日の私鉄沿線駅なのだが、なんだか頭の中は日曜日になっていて、自分なりに調子がずれている。日曜日の休日気分なのだが、今日は月曜日で、休日でも夏休みにすぎないと自分に言い聞かせている。


同じく、円朝作『真景累ケ淵』を原作とした映画なのだが、自由にアレンジしているので、原作を知っている私はやや混乱している。映画による原作のアレンジ、アダプテーションを私は評価している。原作に忠実一辺倒主義者ではない。大胆なアレンジ、大胆な解釈、大胆な変更こそ、原作に対する最高の敬意だと思っている私は、アダプテーション容認派である。


ただし、また成功したアダプテーションならなおさらのことだが、通常、原作よりもアダプテーションのほうが記憶に残ってしまうことが多く、原作に対する記憶違いを起こすこともある。


ある大学の先生から実際に聞いた話だが、学生がシェイクスピアの『ロミオとジュリエット』のあら筋を紹介しているとき、ティボルトを殺したロミオは、砂漠に追放になると話したので、先生はびっくり。シェイクスピアの時代、あるいは当時のヴェローナに、砂漠がイメージされたことなどない。追及してみるとバズ・ラーマン監督の『ロミオ+ジュリエット』をDVDで見て、原作を読まなかったために、そんなへんな話になってしまったとのこと(たしかに現代に舞台を移したバズ・ラーマン版ではディカプリオ扮するロミオは砂漠に追放される)。


このくらいはまだ可愛いほうだが、ある本で、トーマス・マンの『ヴェニスに死す』を紹介していながら、主人公のアッシェンバッハを作曲家として記述している箇所があって、唖然とした。その本はいまは版を重ねて誤りが直っているかもしれないから、書名は伏せることにするが。


アッシェンバッハは、マンの原作では作家、ブリテンのオペラ版でも作家、ヴィスコンティの映画版は作曲家となっている。映画の印象が強すぎて、原作の設定が忘れられてしまったのだ(映画しか観ていないということも十分に考えられるが、これは問うまい)。


このような誤りを繰り返さないためにも、『怪談』と『真景累ケ淵』の設定の違いを列挙して、原作を忘れないための基盤データとしたい。なおカッコ内の数字は岩波文庫版の章の数字。


以下ネタバレ注意。Spoiler 注意



1 皆川宗悦の住まいはどこか映画では説明がないが、原作では根津七軒町に住む鍼医で高利貸し。


2 宗悦を殺す深見新左衛門は、映画では下総羽生村の住人とあるが、原作では江戸・小日向服部坂上に住む旗本。


3 映画では宗悦が左目の上を切られ、さらに雪のつもった庭先に転げ出て、そばにあった鎌で身を守ろうとするが、新左衛門に切り捨てられる。原作では新左衛門は酒に酔って立ち上がって剣を抜いたはずみに、宗悦の「肩から乳の辺まで斬り」こんで死に追いやるというあっけないものである(2,3)。


4 映画では宗悦の死体を塁ケ淵に沈めたことになるが、原作では死体を葛篭(つづら)に入れて下男に捨てさせる。下男は困って秋葉の原に捨ている。秋葉原のことか。(なお原作では、この間の事情は、速記にもとづくせいか、説明不足のとろこがある)(3)。


ちなみにこの下男とは左右門といい、下総の出身。この左右門の息子が三蔵で、新吉が結婚するお塁の父親(映画版)/兄(原作)である。そう三蔵は、宗悦の死体を捨てにやらされた下男の息子で、自分が使えていた主人の次男の義理の父親(映画)/義理の兄(原作)となる。新吉は、このことを兄新五郎から、夢のなかで聞かされる(36)。


5 映画では新吉が煙草の行商中、豊志賀と運命的な出会いをするが、原作では、新吉は、稽古好きでふだんから豊志賀のところに入り浸っていて、12月20日霙の降る夜に、家の二階で寒さに震えている新吉を豊志賀が一階の自分の寝床に誘い、二人は結ばれる(15)。


6 映画では、お久にやきもちをやく師匠豊志賀が新吉と争っているときに、三味線のばちで、豊志賀が目の上を切ってしまう。その傷が腫れ、顔の左半分を覆うようになる。原作では、豊志賀の目の下に、ある日、小さな腫れ物ができる。それがだんだん大きくなるだけ(16)。


7 映画では深川の花火の日に、豊志賀の薬を買って帰る途中の新吉とお久がで出会い、どこかの料亭の屋根裏のような部屋にふたりで入り語り、その間、豊志賀がひとり家のなかで苦しむという設定。原作では、病の豊志賀が寝ついてところで外に出た新吉は、ばったりお久に出会い、寿司屋に行く。寿司屋で、二人は二階の四畳半の狭い部屋に通されるが、その部屋は中から鍵がかかるようになっている。連れ込み宿のようなものか。しかし話していると、お久の目の下に小さな腫れ物ができ、みるまに大きくなり、お久がいまにもつかみかからんとしたので(この間の描写は意図的か、アクシデントか、わかりづらい)、新吉は驚いて、寿司屋を抜け出して、伯父のところへ行く(18)。


8 映画では、伯父のところに行った新吉は、押入れの奥から、刀をくるんだ包みを取り出して、これを売って金をつくるという。つまり新吉は、煙草の行商をしているが、もとは侍だということ、本人もそれを知っていることになる。原作では、新吉がお塁と結婚をしてからのこと。お塁が妊娠し、新吉も、質屋の仕事に精を出す頃、江戸から早飛脚が来て、病の床にある伯父勘蔵からひと目会いたいという手紙を渡す。そこで江戸の伯父のもとに赴くと、死ぬ間際の勘蔵から、新吉が旗本深見新左衛門の次男であると告げられ、その証拠に、迷子札というものを渡される(34)。


9 映画では豊志賀のもとへは、妹、お園が来ている。しかし原作では、豊志賀と新吉が出会うまえに、お園は死んでいる。


下総屋惣兵衛という質屋のもとで下働きとして働くことになったお園は、惣兵衛が連れてきた新五郎(新吉の兄)と知り合う。新五郎は武士をやめ商人として働くことになり、その質屋でお園に恋をする。しかしお園は、新五郎を良い人だと思いつつも、死ぬほど嫌いなのである(親の敵の長男であることを彼女は知らないのだが)。新五郎のほうは、お園の看病をしたり、やさしくしながら、口説くのだか、お園はよい返事をしない。思い余って、物置に探し物に入ったお園の後を追って入った新五郎は、お園を押し倒すと、運悪く、お園が倒れたところに鎌があって、それが刺さったお園は絶命する。新五郎は、質屋の主人から100両を盗み、出奔して仙台に逃げる(12)。


なおこの質屋に番頭として勤めていたのが三蔵であり、三蔵はお久の伯父、また、のちに新吉の義父(映画版)/義兄(原作)となる人物。三蔵は、新吉の兄、新五郎を、お園殺しで告発したらしいが、新五郎は夢のなかで、三蔵による告発を新吉に告げる(36)。


10 お久と新吉の墓場での出会いは、映画では豊志賀の墓参りにきた新吉が、あとから来たお久に会うのだが、原作では逆で、墓参りにきているお久のところに、新吉がやってくる。その場で二人は、下総行きを決定するのは、映画も原作も同じ(21)。


11 新吉が三蔵のもとに拾われるのは、映画では、お久を殺してしまった新吉が疲労困憊して倒れたところを、行き倒れと思われ、地元の名士の質屋三蔵に拾われたということになっている。三蔵の家で、新吉の介護をした、お累(三蔵の娘)は、新吉にほれてしまう。これが映画版。原作では、お久を殺してしまった新吉は、地元の嫌われ者勘蔵の家で世話になる。勘蔵の弟分となり、お久殺しの秘密を新吉は告白する(25-26)。そのうち、お久の死体も見つかり、埋葬されると、それを聞きつけた新吉が、お久の墓参りをする(非業の死をとげた者の墓参りをすると無尽でツキが良くなるからという理由を新吉はこしらえる)。そこで、墓参りに来ていたお塁に出会う。お累は新吉に惚れる(27-28)。


12 映画では、三蔵が新吉に娘のお塁を嫁にもらってくれと頼む。しかし豊志賀の呪いを恐れた新吉は、その申し出を受けない。思いあまって退席して泣いているお塁のもとに、新吉が行き、抱き寄せると、天井から蛇が落ちてきて、驚いたお塁が囲炉裏の鍋をひっくりかえし、湯が顔にかかってやけどをする。お塁を哀れと思った新吉が、やけどのあとが癒えたお塁と結婚する。原作では、蛇が三回でてくる。h蛇がファリックシンボルなのか。最初は、お久の墓参りに来たお塁のところに(28)。次は、9月の半ばの夜、三蔵の家で寝ているお塁のところに出て、このとき、囲炉裏の熱湯を浴びる(29)。お塁と新吉の初夜、天井から蛇が落ちてくる(32)。

以下、つづく