入試問題


北海道から帰ってきたら、大学入試問題集に問題使用許可願いが来ていた。公文と教文館から。


私は入試問題を作る立場なので(立場ではあるが、実際に今作っているかどうかは秘密)、入試問題に使用する文章の著作権については、うるさくいうのはどうかと思う。と、常々考えているのだが、著作権者に許可をえて使用料を払うという最近の傾向から、わかったことがある。それは私自身の文章が、知らないうちに入試問題に使われて、問題集に載っているということだった。


このことは以前、このブログにも書いたが、ただ教文館の問題集(いわゆる大学別の赤い表紙の本)に乗るのは、私の翻訳の文章を題材にした問題である。その翻訳は、共訳なのだが、出題されている部分は、私が訳したところである。だから私に連絡が来るのだろうが、ほかの共訳者が担当した箇所から出題されたら、その共訳者が報告してこないかぎり、わからない。まあそれはともかく、国語の入試問題が、私の翻訳文から出題されているのは、名誉なことのようにも思えてくる。


翻訳はともかく、いろいろな問題集に収録されている私の文章を題材にした問題は、正直言って、私の文章が難しいので問題としては難問に属すると思う。こんな難しい文章を受験生は解いているのかと思うと、べつに私が問題を作ったわけではないが、なんだか申しわけなく思ってしまう。


公文から送られてきた書類には見本刷りがあって、それは柄谷行人の文章を題材にした問題が掲載されている。柄谷行人の有名な本からの出題なのだが、これも受験生には難しい文章だと思う。私自身、高校生のとき柄谷行人の文章を理解できたかどうかまったく自信がない。柄谷の文章にある問題意識は、高校生時代の私は持ち合わせていなかった(まあ、当然のことかもしれないが)。いまの高校生だって、そんな問題意識などないとも思うのだが、でも読まされて問題を解かされる。私の文章のほうは、べつに問題意識はなくても読めると思うのだが、論理が七転八倒して、アドルノ的というか、酔っ払ったフレドリック・ジェイムソン的な文章で、きわめて読みにくい。それを解かされる。


学力低下とかなんとかいわれるが、実際には、いまの生徒たちは、たとえば小学生でもいいが、彼らは、私が小学生だった頃よりもはるかにむつかしい勉強をやらされている。いまの高校生は、私が高校生だった頃には絶対にわからなかった難解な、あるいは新しい問題意識(プロブレマティクス)の文章を読まされる。学力は向上している。あるいは教材だけが向上しているのか。