サマーストーリー


Amazonを検索中に、ふと『サマーストーリー』という映画のDVDについての記述が目に留まった。映画の紹介にはこうある――

ノーベル賞作家、ジョン・ゴールズワージーの短編を映画化した珠玉のラブロマンス。若き弁護士・フランクは旅先で出会った少女と恋に落ち、将来駆け落ちをする約束を交わし、彼女と離れ離れになる。しかし、その後フランクは彼女の心痛む真実を知り…。

そしてカスタマーレビューでは、この映画概ね好評なのだ。まあ私のほうが頭がおかしいのかもしれないが、昔、深夜のテレビでこの映画を観ていた私は、だんだんむかついてきて、映画の最後にいたっては、怒りが頂点に達した。世界観がおかしいというか尋常ではない。いまどきこんな物語を映画にするか。


その怒りと憤りは、たとえば、迷惑メールかなにかで、画像が送られてきた。エロい画像かとすけべ心を起こして開いてみたら、とんでもないグロテスクな残酷画像だったときの不快感とそれは似ている。そんなグロいイメージを平気で操作できる人間の狂気への怒りと、私がその狂気のターゲットになったことへの怒り。それと似たものを、この映画を観て感じたのだ。


調べてみると、この映画の原作は、いまの引用からもわかるようにゴールズワージーの「林檎の木」であった。そんな名作も知らないのか、読んだこともないのかといわれそうだが、読んでいないし、まあいまとなっては、読まなくてもいいと思った。ただゴールズワージーの古臭いラブロマンスだからこうなるのか、しかたいないなと、納得したりもした。


映画には『モーリス』に出ていたジェイムズ・ウィロビーと、女優のイモージェン・スタッブズが出ている。映画のなかで彼女は脱いでいる。映画の紹介ではOxford出の才媛とかなんとかイモージェン・スタッブズについて書いているが、私にとって彼女はシェイクスピア女優のひとり。映画でいうと『十二夜』で主役のヴァイオラを演じているし、もう少し若い頃、イアン・マッカランがイアーゴーを演じた『オセロ』の舞台をもとにしたテレビ版だったかと思うが、そこで彼女はデズデモーナを演じている――そのDVDはいまでも売られている。


Imogenという名前の女性はシェイクスピアの『シンベリン』に登場する。昔、オックスフォード版の一巻本『シェイクスピア全集』の新機軸の悪口のネタに彼女をひっぱり出したことがある。オックスフォード版の全集ではImogenという名前は、ミスプリントだったとかなんとか理由をつけて、Innogenに人物名を変えている。しかし伝統的にImogenと表記されてきた人物、いくら上演されることが少ない芝居だとはいえ、それを簡単に変えていいのか。女優のイモージェン・スタッブズに、あなたの名前はミスプリントだからイノージェンに変えろとでもいうのだろうか、と、書いたことがある。いまなら、このブログに書きそうな内容だが、昔のこと、20世紀のことなので、どこに書いたかは忘れた。


物語は、うろ覚えではあるが、こんな風に展開する。よくある話である。オックスフォードだったかケンブリッジだったか、エリートの大学生(若い弁護士だったのかもしれない)が友人とともに、ひと夏、田舎で過ごすことになる。そこで村の若い女と仲良くなり、肉体関係にまでいたる。やがて夏が終わり、若い二人の男たちは、田舎を去る。いっぽう女のほうは、結婚の約束をしてくれた男をしたって、日本風にいうと上京してくる。しかしかたや若きエリート弁護士で良家との結婚話がもちあがっている前途有望な若者。かたや田舎娘。身分の違いから結婚など夢のまた夢。しかも若い男のほうは、その田舎娘を無視するか、存在すら忘れているようだった。捨てられた娘は、そこで抵抗してスキャンダルを起こしてもいいのだが、昔の物語である。自分から身を引いて、田舎に帰る。よくある話でしょう。


それから10年くらいたったのか、その男は弁護士として成功しているようだが、愛のない家庭生活を送っているらしいのだが、昔、ひと夏をすごしたその村を再訪する。そこで村人から話を聞かされる。その村人は語る――目の前にいる男が誰だか知っていて知らないふりをして語っているようなのだが――、可愛そうな娘がいて、男にふられ、悲嘆にくれ、死んでしまった。彼女は、自分をふった男の子供を身ごもっていて、無事出産したものの、自分は死んでしまったという悲劇を語る。するとその男は、いますれ違った男の子が、彼女の子供、つまり自分の子供でもあったに気づく。そして自分のした過ちの大きさに愕然としながらも、その子を引き取って自分の家の跡取りにすることを考えているふしがある。


ちょっと、待て。ここまできて私の怒りは頂点に達したのである。昔、夏休みを過ごしたその村に、またのこのこやってきてノスタルジーにひたるというのは、この男、なにも考えていないということでしょう。ただのエリートの馬鹿息子じゃん。田舎娘だからこそ、逆に純朴で、行きずりの恋などいうかたちですませられない一途な想いを抱くなどということは考えもせず、ただの娼婦のように扱っている。ひと夏、気のいい娼婦と面白おかしくすごした。セックスもした。でも、それで終わりと考えて平然としていられるのは、本人がよほどの馬鹿か、堅固な階級制度に守られているかのどちらかである。そしてどちらにしても不愉快きわまりない。


あるいは、やむをえぬ交通事故で人をはねてしまった。悪かったね。悪気はなかったのだがという程度の反省ですむと思っている人物の愚かさが気に入らない。いや、物語はドラマではこういう人物はありふれている。2時間のサスペンス・ドラマだったら、こういう男は、まちがなく犯人で、最後に断崖の追い詰められて、みずからの悪行を暴かれることになっている。あなたは軽い遊び心だったのかもしれないが、この娘にとっては、これは真剣な恋で、ふられたら死ぬしかなかったのですよ。そこのことを考えたことがあるのと片平なぎさなら詰め寄るだろう。自暴自棄になった男は、断崖から飛び降りようとすると、あんたはそう簡単に死んでもらっては困ると、船越栄一郎が止めるだろう。


サスペンス・ドラマの正義感にふりまわされているだけではないかと批判されそうだが、ちがう。悪辣な人物が、最後まで悪辣であったり、愚かであってもいい。問題なのは、映画がこのエリート坊やの側に立っていることなのである。その娘には、可愛そうなことをしたな。でも、こういうことはよくあるよ。その忘れ形見を養子にして育てればいいじゃない。そうすれば死んだ女もうかばれるさ程度の結末なのだ。そしてあくまでもその男に同情的なのだ。わたしをそんな屑といっしょにするな、と、私の怒りは爆発したのである。


繰り返すが、サスペンス・ドラマの正義感にふりまわされているのではない。ベンヤミンがどこかで書いていたが、物語とは正義を体現しているのである。たとえその正義は、普遍的なものでなく特定の時代や社会に固有のものであっても。この映画の正義は、今の時代の正義ではない。階級構造を肯定し、田舎者や女性を馬鹿にするこの映画は、それを、そういう事実もありました、そういう社会もありましたと提示しているのではなく、それを、あくまでも正義として提示しているのである。舞台が19世紀であったり、原作も古い作品だから、しかたがないということは許されない。作っている側は、わたしたちに近いのだから。となるとこの映画の正義を共有する集団があるということになる。屑はいてもしたかがたない。少なくとも、私をそこに混ぜるな、と、そういいたいのである。


物語は、森鴎外の『舞姫』なんかと似ているところがある。しかしかつての恋人の踊り子がドイツからはるばる日本にやってきたとしたら、当時としては、たとえば脚気は病原菌が原因であるという間違った説に固執し、日露戦争では戦死者と同じくいら多くの脚気の死者を出し続けた元凶でもある当時のドイツ流医学を範として仰いだ帝大医学部につらなるエリート軍医の森鴎外は、そんな踊り子ごときと結婚することはできず、相当に悩むだろう。苦しむだろう。苦しめばいいというのではないが、しかしもし、全く苦しまず、それどころか十年後にドイツを訪問して、昔、下宿していた家を訪れ、かつての恋人の踊り子が、自分の子供を産んで死んだという話しをきかされるという能天気な展開よりはましであろう。幸い、そういう結末を鴎外は選択しなかった。


あと『舞姫』との連想からいえることは、メトロポリタンと田舎という二極構造は、文明の対立でもあること、植民地的構造とも似ていることである。宗主国から、若者が、植民地に遊びに来る。そこで原住民の女と仲良くなる。でも捨てて帰る。原住民の女は自分を捨てた男を待っている。アエネイスを失ったことを嘆き、火に身を投ずるディド。あるいは蝶々夫人。結局、こうした物語のイデオロギー的解決は、宗主国の人間は、植民地の原住民に対し悪行の限りをつくしてきた。それも自分では反省も意識もしないまま。そのことは肝に銘じなければならならい。みずからの有罪性を見失ってはならない。と同時に、植民地の人間は、宗主国に抗議するのではなく、静かに身を引いて耐えるのがよい。耐ええる側こそ、人間的であり、人間の尊厳は耐えることにある。また宗主国の側も、植民地の人間の犠牲に報いなければなんらない。蝶々夫人は、いくらピンカートンが愚かな男とはいえ、彼をを殺してはいけない。切腹しないさいということだ。


しかし『蝶々夫人』ですら、アメリカ人ピンカートンの帝国主義的姿勢を批判的にみていたのに対し、この映画は、ピンカートンに同情的に描かれている。私の怒りは、結局、植民地現地人の怒りそのものでもあった。