The Wicker Man


昨日、映画The Wicker Man(1976)のDVDがアメリカから届いた。注文していたことを忘れていた。しかし、もっと忘れていたことは、そのリメイクの上映を見逃したことだ。もうどこでも上映していないだろうとがっかりしつつ調べたら、まだ上映していた。10月に入ってからも上映している。


ニコラス・ケイジは主役だけでなく、プロデュースもしている。そのせいか、よくわからないないがリメイクはすこぶる評判が悪い。1976年版と比べてのことだろうか。しかしリメイクの監督ニール・ラビュートは、悪い監督ではない。ラビュートの映画を通して、私はアーロン・エッカートを知った。英文学者にはバイアットのPossessionの映画版の監督としても知られている。Possessionは授業で2回くらいにわたって全編教室で見せたのだが、原作と同じように、最後でジェレミー・ノーザム演ずる詩人が女の子と出会うシーンがあって、あらためて見直すと涙が止まらなくなるくらい感極まってしまい、授業をしなくてはいけなくて、かなりあせったことを記憶している。


とはいえラビュートのえぐさは、たとえば『ベティ・サイズモア』(日本語のタイトル、原題Nurse Betty)のようはメタフィクショナルなコメディに、すごく残酷な映像が出てきたり(アーロン・エッカートが頭の皮をはがされて血だらけになるというような)、レイチェル・ワイズ(ほんとうはヴァイスなのだが)が主演していたThe Shape of Thingsも、後味の悪さが特徴のような演劇的映画だった。だからラビュート監督の持ち味がでていれば、リメイク版も面白いはずなのだが。まあ1976年版から見て、たしかめておこう。来週にでも。


追記
映画Possessionで思い出したが、20世紀と19世紀のふたつの世界が交錯するなかで、グウィネス・パルとローとアーロン・エッカートがからむ20世紀編よりも、詩人のジェレミー・ノーザムと、その愛人であった女性の詩人とがからむ19世紀の話のほうがずっと面白いのだが、そのクリスタベルなんとかという詩人を演じたのがジェニファーEhle(イーリーと発音する。日本の映画会社の表記は間違っていた)。彼女には思い出があって、昔、イギリスで夜の10時30分くらいだったか、テレビ・ドラマをぼんやりみていたら、そのなかで若い女性が、全裸になって、陰毛もまるみえになった。さすがに私はお茶をこぼしそうになったが。テレビで全裸シーンに出会うとは。そのあと男とベッドでセックスをするのだが、セックスーンは出てこない。ただそれにしても、イギリスのテレビは、夜にはヘアー丸見えのドラマをするのかと驚いたことがあるが、ただそれは当時、イギリスでも話題になっていた。非難の声もあがったが、全裸を見れたと驚いている声のほうが多く、まあイギリス人もスケベ人間だと、あらためて納得した*1


ジェニファー・イーリーは文芸物の映画によく出ていて、先ごろ評判が悪かった映画版『高慢と偏見』のせいで、ますます株を上げているBBC版の『高慢と偏見』だが、コリン・ファースの演技が取りざたされることが多いものの、そのBBC版のエリザベス・ベネットは彼女が主演。そんな彼女だが若い頃のデビュー作のようなテレビ・ドラマでは私に全裸を見られてしまっているのでした。


それからPossesionのなかで詩人の彼女のレズビアンの友人がいる。同居しているこのレズビアンの女性は、恋人の女性詩人が、男性の恋人になったため、自殺をする。同性愛者に典型的な悲劇的死を迎えるのだが、そのとき服に石をつめて湖に入っていく姿は、同じようなかたちで自殺した『めぐりあう時間たち』のヴァージニア・ウルフの死を髣髴とさせる。その彼女は映画では、みるからにレズビアン女性(たとえばレズビアン映画の古典『デザート・ハート』に出てくるようなコロンビア大学の英文科の教員の恋人となるような女性)で面白かったのだが、映画を観た人は憶えているだろうか。レズビアン役の女性を演じたのはリーナ・ヘーディー。そう彼女はレオニダス王の王妃を演じている――『300』で。


『オネーギンの恋文』(原題Oneginプーシキンの物語詩『エフゲニー・オネーギン』の映画化)に出ていた頃の彼女は、オネーギンの友人の恋人の女性で、リヴ・タイラーが姉を演じていて、その影にかすんでいたが、『ブラザー・グリム』では、モニカ・ベルッチ扮する妖艶な魔女に対して、元気なクィアーな男勝りの農家の娘を演じていた。Imagine You & Meという映画では(日本で公開されたかどうか不明)、パイパー・ペラーボ(『コヨーテ・アグリー』の)の恋人役(レズビアン役)で出ていた。けっこうクィアな女優である。『300』では、アジアのペルシアのゲイ・レズビアンクィア軍団のモンスターたちと戦う、マッチョでヘテロなスパルタの国王の妻を彼女が演じているというのは、冗談と考えたほうがいいのかもしれない。


『エフゲニー・オネーギン』の話が出たついでに、プーシキンのあの物語詩では、首都と地方、身分の差はあまりないようだが世間ズレしたリベルタンと、純朴な田舎の貴族の娘という組み合わせは、先に取り上げた『サマーストーリー』と同じような構造をしている。しかし、地方で、純朴な田舎娘に言い寄られても、心動かされず、女性からの必死の求愛をはねつけたオネーギンも、彼女がペテルブルグで結婚し社交界の花形的女性に変貌をとげると、逆に、恋をしてしまい、報われぬ恋に破滅してゆくのだが、なぜこういう物語にできないのかと、『サマーストーリー』を思い浮かべて、怒りが新たにわいてきた。


田舎でひと夏をすごした若いエリート弁護士は、田舎の娘に結婚を求められるが、身分の違いとか年の差とか田舎者という理由で、それをはねつけるのだが、自分がふったその女性が、やがてロンドンに来て社交界の花形になると、恋をしはじめるが、昔のつれない態度に後悔するだけで、失った愛は取り戻せないというような話のほがずっと面白いぞ。と、また怒りキャラに変貌する私だった。

*1:The Camomile Lawn 1992 テレビのミニシリーズ。