晩年のスタイル


『サウスバウンド』は昨年の『間宮兄弟』と並んで、いかにも森田芳光監督の映画という感じがしたが(森田監督らしくないという評価もあるようだが、あの映像というか撮り方は、森田映画でしょう)、物語そのものは、原作が長編であることもあって、よくわからないところもあったが、それなりに満足できる映画だった。


大学からの帰りに近所のシネコンで観たのだが、なかでも一番狭い映写室とでもいうのだろうか、巨大なスクリーンに対して座席数が少ない。最後列が一番ベストな座席で、それよりも前は、通常だったら、観客が座らないほど前の席になってしまう。私は直前に入ったので、すでに観客で埋まっていた。最後列とそのすぐ前二列が。私は最後列から数えて三番目の列に座ったが、それよりも前の列には誰も座っていない。


ただ若い人もいたが、年輩の客もたくさんいた。先週の『エヴァ』とは好対照である。しかしエンドクレジットを、中島美嘉の歌を聴きながら最後まで見て明るくなったら立ち上がったら、周囲には三人しかいない。中島美嘉の歌もよかったし、どんな人が出演して、どんな場所で、どんなふうに撮影したか、けっこう興味ぶかくみていたので、気づくと三人しかいなくなっていることにちょっと驚いた。


主役のトヨエツの人物像については、元過激派でいまでは時代とずれながらも、反体制的な意識を失わない変人パパとういうわけだが、ネット上の映画評にあったように、

内容的には父親トヨエツには、もう少し抵抗して欲しかった。
ニヤリと笑い理屈をこねる。そこでもっと徹底して
相手を論破する理論武装の姿が描かれていれば、
作品自体の迫力がもっと増したものだと思う。

というのは全く同感である*1。いくら新左翼過激派の時代が去ったとはいえ、状況はその頃よりも変わらず、もっと悪化しているというのだから、あんなものじゃ戦えないし、意味もないし、批判性もないのではないかと歯がゆくなってしまう。それに現在の政治意識ゼロ、社会性ゼロの、病気に近い、クレーマーの跳梁跋扈を考慮すると、この親父の行為は、むしろほほえましいくらいである。


ただこのへんを忘れれば、時代から取り残されたような元過激派の人間が、時代におもねったり、時代に追いつこうとしたりせず、自分の生きざまと思想をつらぬきとおすことの物悲しさと爽快感というふうに考えれば、面白い映画だと思う。まさにこれは「晩年のスタイル」の映画だからである。


時代とのずれ、先取り、あるいは遅れ、というのは、けっこう丹念に描かれる小学校の息子の東京での生活や行動が暗示している。小学生の子供たちの妙に大人びた会話は、それだけで面白いのだが、それはまた幼い彼らが大人として会話し行動しているという時間の先取りを意味している。事実、子供たちのひとりは、いかにも大人びた陳腐な保守的な意見を披露する。


これに対して、ことあるごとに「ナンセンス」(今では死語となった)を連発する父親は時代から遅れている。事実、父親の世代が、過激派として活動できた全盛期は終わり、いまや下町で細々と暮らしていて、まだ若いのだがすでに晩年を迎えているといってもいい。そしてまた通常の晩年にふさわしい達観や成熟とは無縁の、つねに反体制的な姿勢をくずさないレジスタンスである父親それに母親は、成熟も成長もせず抵抗しつづける晩年のスタイルをまさに地でいっているといっていい。


ここからはネタバレ。Spoiler注意。


結局、映画の最後には、一時的逃避というかたちだが、父親と母親の二人は船に乗って島を去る。子供たち三人を残して。この結末は、ある意味、ちょっと異常だが、誰も死なないこの映画だが、父親と母親のふたりは死ぬのである。ちょうど西部劇で悪人を退治したシェーンがほんとうは死んでいるように。海の彼方の死後の世界。となると彼らの行動は、まさに晩年の行動であった。そしてつねに時代の先頭に立ち、時代に追いつき、時代とシンクロしようとする子供たちに対して、時代から遅れたもの、時代に取り残されたものを忘れるなと晩年の死せる親たちが遺言を残すのである。

*1:あとネット上に「土建屋の社長(村会議員)が、とてもプロとは思えないような自然に田舎のおじさんを好演していました(裏金工作を断られたあとの不機嫌様は絶品)」という評価(引用した人とは別の人があったが)、え、それは嘘でしょう。あの人は素人でしょう。もしあれがプロだったら、あんなに素人っぽい演技ができるというのは、ほんとうに奇跡に近い。一見の価値があるけれど、地元の人でしょう。