ラビリンス


本日21日は学生との映画会。ギレルモ・デル・トロ監督『パンズ・ラビリンス』(2006)を有楽町のシネカノン一丁目(10月13日からシネカノンは1丁目と2丁目の2館になった)。


Introduction 屑を呼ぶ男


上演40分前に行っても、もう良い席はなく、一番端か前のほうの見上げる席しかないということで、左端の席にしてもらう。人気のほどが知れる。映画館は本日、ほとんど満席だった。日曜日、同じ映画館で『バッチギ2』を観たときは、満席ではなかったような気がしたが。


で席につくと、私の後ろに座った男女、大学生らしいのだが、なんとはなしに話をきいてみると、バカップル。まあ男のほうが頭がいかれているのだが、女のほうも、男のバカが伝染して、映画が始まる頃には、私の後ろの二人の男女だけが妙に盛り上がって館内に響くような笑い声をたてている。男のほうが映画を観たことはほとんどないこともわかった。


で、いやな予感は的中した。映画が始まってから、男が私の椅子の背中を蹴るのである。列と列との距離がそんなに狭いわけではないのだが、よほどの巨漢か、だらしなく座っている場合か、わからないが、足が前列の席の背中をついつい蹴ってしまうことである。しかしどこの映画館でも上映前に、前の席の背中を蹴らないようにと注意がされるのに、このバカップルの男は、体を動かしているのだろうか、脚が私の椅子の背中にちょくちょくあたるのである。


背中が押されるようになると気が散ってしまう。また忘れた頃に蹴られる。ということで、かなり頭にきた。映画の最後のほうでは、ファシストの駐屯地がゲリラというかレジスタンスの攻撃を受けて爆発が次々と起こる。その攻撃の大音響のなか、私は背後からも攻撃されているのである。


以前、この映画館で『バッチギ2』をみたとき、終わってから入り口に向かう途中に、反対側の入り口近くで、男の怒鳴る声が一瞬聞こえた(「電話なんかかけてんじゃねい」とかなんとか言っていた)。どんなトラブルなのか、わからなかったが、映画の中の乱闘シーンが客席にまで伝染したのかと驚いたが、今回、私もぶちぎれ寸前だった。そのバカップルを写真にとってやれと、まあ正面からは無理だし、仮に正面からとれても、このブログにはりつけるわけにはいかないから、後姿でもとってやれと、映画が終わったら、携帯のスイッチを入れたが、その間、そのバカップルは、エンドクレジットが始まるとすぐに席をたって消えた。くそ。まあ、バカは消えろ。


べつの映画館で西川美和監督の『ゆれる』を観たとき、映画そのものはすばらしかったが、そのとき私のすぐ隣に座ったバカップル、今度は、女のほうが、とんでもなバカ女だった。映画がはじまるまえは、その女は「オダギリジョーがどうのこうの」と映画通、芸能通のような話をしていたのだが、映画がはじまってから、ため息をつきはじめるのである。


その映画は、緊張感あふれる映画だったが、同時に、ため息をつきたくなるような内容でもあったので、そういうことかと思ったら、そのため息が映画の内容とシンクロしていない。全然シンクロしていない以上、ひょっとして体調でも悪いのかと心配になってきた。しかし苦しそうな様子ではない。もし苦しかったら、カップルできているのだから、相手に訴えればいい。そのシンクロしない、耳障りきわまりないため息女は、映画がつまらなかったこと(その若いバカ女にとってはの話で、こんなに面白い映画はなかった)からきたらしい。精神的に苦痛で早く終わればいいとため息をついていたということがわかってきた*1。ただそれにしても、『ゆれる』という映画は、観客(若い人が多かったけれど)が、みんな固唾を呑んで見入っているという感じの映画だったので、ほんとうに、私の隣の女のため息には、脱力させられた。


結局、私が悪いのです。本日のバカップルの蹴飛ばし男も、映画館全体で、おそらくその男だけが、映画が面白くなくて体をもぞもぞさえて足で前列の椅子(私が座っている椅子)を蹴飛ばしているのである。そういう屑が、よりにもよって私の真後ろに座ったのである。『ゆれる』を観たときも、映画に興味がなく、ため息ばかりついているようなバカ女が、よりにもよって私の隣に座ったのである。屑を呼ぶ男。それは私です。


本編


学生が目撃したところで、妊娠している女性がこの映画を観に来ていたということなのだが、まあ夫婦かカップルで、しかし、この映画は妊娠している女性がみるような映画ではありません。胎教にもよくないと思う。だいいち映画の中で妊娠している女性(主人公の女の子の母親)が大出血する。二度も。二度目には死ぬ(たぶん軍医に殺される)。


そう、その妊娠している女性は、パートナーに騙されてか、あるいは映画会社に騙されて映画館に来たとしか思えない。ダークファンタジーというよりも、グロテスクなホラー・ファンタジーに近い。それを小さな可愛い女の子が主人公として登場することをいいことに、ちょっとグロイけれど、心温まる、メルヘンチックなお伽話として騙して観客を動員しているとしか思えない。売っているプログラムだって、可愛らしいく、内容のグロテスクさを全く感じさせないものとなっている。だから日曜日だからカップルで映画でもみようかというときに、格好の映画となる。しかし、若いカップルが騙されたと唖然とするのはかまわないが、妊娠している女性も呼び寄せてしまうのだから、映画会社の罪は重いぞ。妊娠してあんな映画をみたら、それこそ流産してもしかたがないくらいの、映画なのである。


グロテスクだけではなく、残酷な場面も多くて、観ていて力が入る。たとえば注射を打たれるときは体が一瞬緊張するように、この映画も下腹に力がはいるというか、あるいは全身が緊張するような場面がいくつもあった。ファシストの大尉が、果物のナイフのようなもので口を切られ、片方の頬がぱっくり開いて口裂き女みたいになるのだが、それを大尉は鏡をみながら自分で縫い合わせるのである。あの場面は見ていて一番、痛くて力が入った。しかし、そういう場面の連続なのである。


映画宣伝では独裁政権下で生きる少女が不思議の国に入っていくというようにイメージ化しているが、これは架空の国の独裁政権ではなく、スペインのフランコ将軍のファシスト政権下の物語で、1944年連合国側のノルマンディー上陸作戦がはじまった頃のことである。映画宣伝からは、架空の国の物語と勝手に思ったが、明確な場所と名前をもっているのである。


冒頭、ピレネー山麓フランコ政権の軍隊の駐屯地の司令官の妻の連れ子として、少女が到着するところからはじまる映画では、夜、ウサギを取ろうとしていた農民の親子が、ゲリラと間違われ、息子はワインの瓶で顔を殴打され(どこかの国の相撲部屋の親方かと思わずにはいられなかったが)射殺され、父親も射殺されるが、持ち物からゲリラではなくほんとうにウサギを狩で取っていたことがわかる。ここからはじまる物語は、もう尋常なファンタジーではなくて、過酷で残酷な現実と、そのなかでつむがれるファンタジーの物語りである。


いや正確に映画の冒頭を考えれば、少女が鼻や口から血を出して死にかかっているところからはじめる。主人公の少女は、死ぬ、それも殺されるのかと冒頭から明示されるのであり、彼女が死の直前につむぎだしたお伽話が、この映画のファンタジーの部分となる。しかし、それは全体の2割くらいで、8割くらいは、このピレネー山中に進駐してきたファシスト軍の圧制と横暴と、ゲリラとの熾烈な戦いなのである。

 
また登場人物は、悪魔的な怪物司令官(どんなに刺されても切られても、また薬を盛られても、倒れることがない)を除くと、みな弱く無力で愚かな女性たちである。ゲリラに協力する女性は強い女性だが、彼女もまた軍隊の前では無力であった。また主人公は子供であり、歯がゆいくらいに何もできない愚かな夢見る少女にすぎない。母親は軍の司令官との再婚によって栄達の夢を見ながら、ただの子供を産む機械としか見られていない無力な存在である。彼女たちの無力感がきわまればきわまることで、ファンタジーの条件が明確にみえてくる。残酷な現実を緩和する魔法なり医薬、それがファンタジーなのである。


捕まって残忍な拷問をされ瀕死のゲリラの一人を、村の医師(彼はひそかにゲリラに協力している)は薬を注射して安楽死させる。これで痛みがなくなると語りかけて。ファンタジーの条件のひとつは、これである。過酷な現実の苦痛を緩和し、残酷さから逃避すること。主人公の少女が最後に到達する壮麗なファンタジーの宮殿は、虫けらのように殺されてゆく彼女の運命を補う、唯一の救済である*2。彼女の死んだ父親と母親に再会し、みずから女王として君臨する彼女の姿は、現実において無力なまま殺される彼女の悲惨さと反比例するとも比例するともいえるだろう。荘厳な美しい宮殿は、彼女の悲惨さを和らげる鎮痛剤でもある。そういえば目がない怪物に守られた食卓には、現実の彼女には手に入らないご馳走の山がある。これも貧困な食事の現実と、贅沢な食事のファンタジーという反比例関係である。


また彼女のファンタジーは、最初、ファシズムの暴虐の嵐が吹きまくる現実に比して、いかにも能天気な、頭のわるい幼い少女のつむぎだしたお伽話であるかのようにみえるが、物語がすすむにつれて彼女のファンタジーと現実とがすこしずつシンクロしはじめる。そのため彼女のファンタジーは、無残にも殺されていった多くの犠牲者たちが赴く天国あるいは死の直前の救済的ファンタジーというようにもみえてくる。もはや一少女のファンタジーではなく、虐げられた人々の最後の唯一の救済のファンタジーなのである。


と同時に、現実とファンタジーのシンクロは、二様の関係を出現させる。かたや現実の対極にあり、現実の補償となる世界。現実逃避。一介の仕立て屋の未亡人の娘で、残忍な義父に殺される彼女は、ファンタジーの王国に女王として戴冠する。悲惨と栄光。苦しみと快楽。


だが現実とファンタジーとのシンクロは、もうひとつの関係を生み出す。つまり現実こそファンタジーである、と。少女はファンタジーの世界で恐ろしい怪物に追われたりするのだが、現実の世界でも同じように残忍な司令官に追われるとき、ファンタジーの世界の恐怖と現実の恐怖とは通底しているようにみえる。現実直視。現実こそファンタジーであり、現実において人々は荒唐無稽な魔法を信じている(ファシズムの永続的なユートピア、立身出世の夢、男の子に託す未来など)。現実こそ、ファンタジー世界と同じように荒唐無稽な残酷な世界なのである。


こうなるとファンタジーの世界は別世界ではなく、現実に寄り添っている。現実のまさに裏面そのものであり、さらには現実こそ荒唐無稽な忌むべきファンタジーであるという二重の視点をもたらす契機となる。


映画そのものは現実の歴史的世界もまたファンタジーであることを必ずしも強調はしていなかった。そこがエンターテインメント映画の限界かもしれないが、ファンタジーについてのファンタジーという側面を持つ、メタファンタジーとしての要素は感じられた。カンヌ映画祭では22分のスタンディンブオベイションがあったらしいのだが、それも無理からぬことか。とはいえ22分間も拍手するのはファンタジーに近い奇跡であるが。


追記


1 ウサギ


もしこの映画が『不思議の国のアリス』のダークファンタジー版だったら、ではアリスが不思議の国に行くきっかけとなったウサギは誰なのだろうか。

 
 学生の指摘によって、なるほどと思ったのは、この司令官の大尉こそ、おそるべきウサギである。彼は時間を気にしている。彼の最初の台詞は「15分遅れている」であった。彼の持ち物の時計は最後まで意味をもっている。そういえば主人公が到着したその夜に、ウサギの狩をしていた農民を司令官はゲリラとみなして射殺する。ここに司令官とウサギとのむすびつきもある。なという残酷な反転。あの司令官が、『不思議の国』のウサギであることはまちがいない。また学生のほうが私よりも頭がいいこともまちがいない。


2 カエル


最初の試練のとき、蝦蟇ガエルの怪物に少女が石を飲ませると、口から大きな袋のようなものをカエルが吐き出す。そしてそこに付着している鍵を少女は手にして最初の課題を無事やりとげる。


あのとき蝦蟇ガエルが吐き出すもの。あれはカエルの胃袋である。カエルは異物を飲み込むと、それを吐き出すとき、自分の胃袋もいっしょに吐き出すのである(もちろん、あとで自分の胃袋は、自分のお腹のなかに回収するのだが)。


まあファンタジーで、気味の悪い動物がいっぱい出てくるから、観客はなんとも思わないかもしれないが、あの場面はカエルの生態にもとづいている。


私がなぜそんなことを知っているかというと、むかし『トリビアの泉』という番組で、胃袋ごと吐き出すカエルのことを、映像つきで紹介していたからである。その映像はかなり衝撃的だった。脚本を書いている監督のギレルモ・デル・トロはカエルの習性をよく知っている。私もよく知っている。お互いに褒め称えたい。


3 腎臓


冷酷な司令官ビダル大尉を演ずるセルジ・ロペス。私が知っているはすもないと思いつつも、どこかで見たような俳優だと思っていたら、スティーヴン・フリアーズ監督*3の『堕天使へのパスポート』に出ていた。あの悪辣なホテル支配人だった。その結末はすでにブログで書いた。

*1:だいたい最初に偉そうに通ぶっていたと私が思っていのも誤解で、たんに映画が嫌いだった、だから映画とか映画俳優に文句をたれていてのだろう。ほんとうはこんな映画館に来たくなかったということのようだった。これは教師がよく陥る誤解である。昔英語教師をしていた頃の経験をいうと、生意気そうな学生がいると、自分の授業が、まずい、刺激も与えていない、内容がつまらなく低レヴェルと思われているのではないかと、ついつい反省してしまうのだが、そういう学生は、基本的にその授業科目が出来なくて、授業についていけないから防衛的に生意気な態度をとっているだけなのに、教師の側が、逆に、そうした学生ができる学生と勘違いするということである。

*2:映画的に見ると、最後の壮麗なスペクタクルは、たとえばダグラス・サーク監督『イミテーション・オヴ・ライフ』(日本語のタイトルは忘れた)における最後の黒人家政婦の絢爛豪華な葬式と同じである。あの葬式は彼女が受けてきた激しい人種差別に対する抗議であり、また救済なのだと、監督は語っている。

*3:近作が『クィーン』。