試練の時


『パンズラビリンス』を見た後、わたしとしては、最近連絡がとれなくなっている修士の2年生のふたりのことが気になっているので、映画鑑賞のあと、私の希望で、同じビルの千房で食事を学生(院生たち)としているときにも、そのことを話題にした。あのふたりはいまどうしているのかと。


ふたりの事情をよく知っている院生はいなかった。


ここまで連絡をとってこない院生は、めずらしいぞ。今度連絡がとれたら、映画のなかのパン(牧神)のように、ふたりに試練を三つくらいあたえてやるぞ。ファシストの司令官みたいになって、ふたりを徹底的に拷問してやるぞと、ぶちあげたところ。


院生からは、それはちがう。むしろ試練は、ふたりの院生ではなくて、先生にむけられているのだ、と言われた。


つまりあの二人を、いかに寛容に処遇するか、腹が立っても、ふたりをやさしく導くのが先生の義務であり、たまたまふたりがあんなんだから、これは試練。試練がふたつあると考えるべきだ、と。