前科


このくそったっれな国に生まれてきたからには、絶対に国家にたてついて前科一犯くらいになって死にたいものだとつくづく思っている。この国家に罰せられて前科をつくる。それが死んでゆく私の勲章だと。


とはいえコンビにで万引きしたり、人を殺したり、テロリストになったりするのは、犯罪者だから、そんな犯罪者にはなりたくない。そういう犯罪者を私は憎む。正義は私になくてはならない。犯罪者になって堕落するのが目的ではない。国家という犯罪者に対して、死ぬまでに一度は本気で異議申し立てをしておきたい。それが前科という勲章になる。犯罪者は国家のほうだ。犯罪者としての国家に裁かれた私が、いつかその不名誉を撤回される――たとえ私が死んでからでも。そのような未来が訪れるなら、私は未来を信ずる。私の汚名をそそぐため存在しないような未来は、すべて暗黒の未来であり、存在する価値はない。


最近はテレビドラマでも裁判員制度をとりあげるようになった。『相棒』がそうだった。近未来における裁判員制度の施行試験期間中の事件という設定だった。


この裁判員制度、忙しい生活を送っている国民を、抽選で選び出して強制的に裁判員にするというのは、なんたる悪法だ。これでは戦争中の召集令状と同じではないか。赤紙と同じではないかと常々感じていた。


日本が徴兵制を実施することはないだろうし、また私はこの年齢ゆえに徴兵されることはないのだが、もし徴兵制度が実施されれば、私は躊躇することなく良心的兵役拒否者となることは昔から決めていた。徴兵制度が実現することはないのだろうが、裁判員制度というのは徴兵制度と同じなので、私は躊躇なく裁判員となることを拒否する。


日本は刑法で死刑を認めている劣悪国のひとつである。私は死刑を認めない。宗教上の理由でも何でもなく、良心に照らして。そのため死刑を認める法体系のなかで、被告に死刑を宣告する可能性のある裁判に協力いや強制的に参加させられることは、国家の犯罪の共犯者にされることであり、絶対に拒否するというのが私の立場である。


国家の犯罪の共犯者に国民を仕立てることは、絶対に許されないと私は考えている。そのためにも私自身、そのような死刑の可能性のある裁判ならびに司法体系に加担することは自殺を強要されるに等しいことと考えている。


西野喜一著『裁判員制度の正体』(講談社現代新書2007)を気づくの遅かったが、あわてて読んだ。そこでは裁判員制度を、徴兵制度、現代の赤紙であると断じていて、私と考えが同じだったが、さらに現在、裁判員制度めいたものを採用している国は徴兵制を実施していて、裁判への国民参加と徴兵制は連動している。あるいはたとえ日本で徴兵制がすぐに実施されなくとも国民を動員する体制(そのひとつが徴兵制)への実現の地ならしとなる可能性があるという指摘は、私が思いもよらなかったもので、目を開かれた。


裁判員制度に反対することが、未来をつくるのであり、それに押し流されてしまっては未来はない。


ただ裁判員に選定されたとき、それを拒否すると10万円以下の罰金が科せられるが、これは過料といって、前科にはならない。ちょっと残念である。


裁判員関連で前科になるのは、裁判員になって、裁判の秘密を漏らしたりしたリする場合で、これは罰せられ前科になる。拒否して罰金を払わなければ前科になるのかもしれないが、そこまではわからない。


戦争中と違うのだから、誰が赤紙に応ずるか。拒否者が増えてくれば、過料から罰金に換わり前科となるかもしれない。そうすれば前科が勲章としてつくし、その時は、国民が反乱するときでもある。


なお『裁判員制度の正体』では、裁判官もまた、この制度の犠牲者であるとも書いてある。著者は元判事。最近は、疑問を感ずる判決が多いが、しかし裁判官に対して闘争すると、国家の思う壺かもしれない。この点は、戦う相手は誰でどこなのかを、じっくり考える必要はある。議論は続ける。