オリヲン座状態

ただそれにしても映画館に人がいない。まるでここが『オリヲン座からの招待状』を見ている映画館ではなく、まさにここがオリヲン座ではないかと錯覚させるほどに。


映画『オリヲン座からの招待』(三枝健起監督、宮沢りえ加瀬亮ほか、2007年)は、いかがわしい昭和のテーマパークのような『Always三丁目の夕日』の続編とか、ガッキーの恋愛映画など、ヒットしている愚作と比べると、レヴェルが格段に違う映画で、しかも泣ける。最初、ほのぼのとした話かもしれないと油断していたら、あんなにプラトニックな話になるとは……。プラトニックな話は基本的に泣ける(『無法松の一生』が泣ける映画であるのと同じように)。あと、たとえつかの間のものであっても幸せな時というものを設定している物語は、ノスタルジー的要素も手伝って泣ける。そして今回の『オリヲン座からの招待』には、もうひとつ泣ける要素があった(これはあとで)。


この映画もCGで昭和の風景を再現しているのだが、ナムコワンダーランドの餃子コーナーのような(あるいはいまでも昭和の時代を模しているのだったら新横浜のラーメン博物館のような)、そんな似非テーマパークのような昭和と違って、ずっと本物の昭和していた。いや強いていえば、昭和の映画のなかに出てくるような昭和の風景であって、テーマパークの昭和ではない、まさに映画的な昭和が感慨深かった。たとえば宮沢りえの夫役の宇崎竜童が死んで、宮沢りえ加瀬亮が、葬式から帰ってくるときに渡る加茂川(だと思うが)の橋での場面、あれはまぎれもなく〈昭和の20年代〉の光景であり、同時に、〈昭和の20年代の映画〉の光景でもあった。


また昭和30年代の京都の下町の町並みと、現在の京都の同じ場所が、あきらかに時代の変遷を感じさせる変化を示しながらも、同時に、昔と変わらぬ風情をたたえていて、その差異と類似の絶妙なバランスがこの映画の独特の空間と時間の構成に基盤になっている。


三丁目の夕日の世界は、私にとって時代的にも場所的にも未知な場所であるのだが、こちらの世界についていえば、京都については何も知らないが、時代的には私が物心つきはじめた時代でもあって親近感が沸いた。その例としてひとつだけ*1。映画館の支配人の家の畳の間に英国のアラジン社の石油ストーブ(ブルーフレーム)が置いあって、なつかしさで目が潤んだ。アラジン社の石油ストーブはロングセラーでいまでも使われていることがネットで調べてわかったが、この舶来品のけっこう高い石油ストーブも、日本で『暮らしの手帖』が宣伝したこともあって、私の家でもこれを購入して使った。父親はその性能のよさにいつも感嘆していた。それはほんとうによく出来ていた石油ストーブで、どの日本製の石油ストーブよりも性能がよく、また昭和のその時点ですら古臭く感じられたデザインは、よいものなら同じものをずっとそのままのかたちで使い続ける英国の、よき伝統を感じさせて、すぐれた英国製品の代表格でもあった。もういまでは石油ストーブを使うことはなくなったが、もし使うなら、いまでもあのアラジン社の石油ストーヴを使いたい。で、その新品の石油ストーブが置いてある。すべてが古くてわざとらしく汚れている三丁目の夕日の似非昭和とはちがい、こちらはまだ新しい昭和の世界なのだ。


映画では宮沢りえ加瀬亮のペアが、現代では晩年と死を迎える中原ひとみ原田芳雄のペアにとってかわられる。幼い頃、映画館に遊びに来ていた男の子と女の子は、現代で田口トモロヲ樋口可南子のペアに代わる。若い俳優と初老の俳優に、子役と中年の俳優とが対照されると、通常なら、後者のほうの存在感に、前者のほうの影が薄くなるようにも思えるのだが、映画では、宮沢りえ加瀬亮のペア、子役のペアも、十分に存在感があって輝いていて後年のペアを凌駕するかもしれない魅力をたたえていた(まあ、あの少年と少女は、大人になったら田口トモロヲ樋口可南子になるかもしれないが、加瀬亮は、老人になっても原田芳雄にはならいかもしれないので)。


浅田次郎の原作は読んでいないが、原作では夫婦のふたりを映画では、最後まで夫婦ではないプラトニックな関係においたとのこと(昭和20年代から30年代の、アメリカで言えば1950年代のメロドラマ映画の時代のテイストである)。そこが泣かせるのだが、恋愛物としてみるとこれはスリーサム物であり、死んだ宇崎竜童と、未亡人の宮沢りえ、そして加瀬亮との関係において不在の夫が関係の軸を握るのだが、同時に死んでからの宇崎の映像は、フラッシュバックや写真も含めて見せることなく、宮沢りえ加瀬亮の関係が中心になり、そこに母親と息子でもあり、また夫婦でもあるというような、エディプス的プラトニックな関係が生じくる。その意味で宇崎はエディプス的父親として愛されてつつも排除されるため、死んでからは映像化されない。そして物語の中心は、二人の可愛そうな境遇の小学生に移る。オリオン座の長い歴史のなかで、宮沢と加瀬にからんでくるのは、このふたりの小学生男女だけかというと変な話になるのだが、おそらくは短編(余分なことは描かなくていい作品)を映画化したときに短編の材料しか使えないので、違和感のある展開になったのかもしれないが、しかし子供たちの物語と、映画館の疑似夫婦の話はうまくシンクロしてきて、後年結婚したふたりの子供たちも、離婚の危機を迎えつつ、またよりをもどすのと平行して、映画館の館主の未亡人とその未亡人を慕う映画技師が、最後に愛を告白するという話は、けっこう泣ける(くりかえせばアメリカでいえば50年代のメロドラマ。事実、途中で若い二人(加瀬、宮沢ペア)は周囲から白い目で見られるというのもメロドラマ)。


映画の中で重要な役割を果たすのは、公園で宮沢りえが自転車に乗るシーンなのだが、残念ながら彼女の痩せすぎた肉体は、見ていて痛々しいところがある。しかし、同時に、自転車に乗る彼女の映像に凝集するさまざまな思いと、その映像が象徴するある種の危うさを湛えた関係から逆に照射される彼女の身体の特徴は、見ている者に、アニメの女性の人間離れした痩せた細った身体を思い起こさせるのではないかと、そんな印象をもった。アニメ声とかアニメ顔というのがあるが、あれはアニメ身体との思いを強くした。となれば、けっこう現代的に魅力的ではないのだろうか(アニメ版『時をかける少女』だって、あんな身体をしていたぞ)。


ただそれにしても映画館に人がいない。まるでここが『オリヲン座からの招待状』を見ている映画館ではなく、まさにここがオリヲン座ではないかと錯覚させるほどに。


そもそも映画のなかではテレビの登場によって映画館の客が奪われるという事態が映像化される。映画館の客が徐々に減ってゆくのが映像化され、最後に誰もいなくなる。その途中の映像。映画館のなかにほんとに数えるほどしか客がいない状態、それがいま私が見ている映画館の状態とシンクロしているではないか。なんとういことか。


日曜日の渋谷、午後6時の回とはいえ、誰もいないじゃん。時々私が行く近所のシネコンのウィークデイでも、もう少し人がはいっているぞ。映画始まる前に、映画館が入っているビルのビック・カメラでパソコン用品(フラッシュメモリを)を買った。ビックカメラには人がいっぱいた。また映画が終わった後、同じ建物の11階の居酒屋に立ち寄った。そこも日曜日の夜の8時30分以降だったのに、満席だった。まあ渋谷だから当然といえば当然だが、映画館TOEI1には人がいないのである。絶対見て損はない泣ける映画なのに。映画館に人が少なくて、泣けるぞ。ほんとうに。


まあ、運が悪いのかもしれない。実は、定例の月一回の映画会なのだが、この映画を希望したメンバーがドタキャン。ショートノーティスだったこともあるのだが、結局、参加者は私ともう一人の幹事(男性)だけ。本来なら中止になるところだが、私と幹事のふたりの都合のよい日を優先させているので、たとえほかのメンバー全員が休んでも、絶対に映画会は続けることにしているのだが、まさかほんとうに二人になるとは思わなかった。これまでに一回だけ参加者二人になりそうな時、ひとりが急遽駆けつけくれて、二人にならなかったのだが、とうとう二人になった。ふたりでほとんど誰もいない映画館で映画をみていたら、どうみてもゲイ・カップルだい。まあいまのところ恋人もいない私としてはそれでもいいのだが。


ただそれにしても最終兵器R15、前回幹事が『パンズラビリンス』に誘ったのに懲りて(幹事も悪気があったのではなく、心温まるファンタジー映画と思って誘ったにすぎない。妊婦も映画館に来ていたし、映画の宣伝の仕方にも問題があるが、あんな痛いダーク・ファンタジーとは夢にも思わなかったのだ)、今回は警戒して意地でも来ないのだろうか。この映画館が窓から見えるかもしれないような場所に住んでいながら、このプラトニックな映画に来なくて、いったいどの映画に来るというのだろうか。

*1:せっかっくだからもうひとつあげば、あのうどん屋。ああいうカウンター式のうどん屋は関西だけかもしれず、蕎麦屋が主流の関東にはないかもしれないが、しかし、昔は東京でも、ああいうカウンター式のうどん屋はあった。いまではそれが立ち食い蕎麦屋うどん屋か、もしくはラーメン店に変わって消滅した感があるのだが。