Retirement 1

(BR3)
20日に『ブレードランナー』見てきた(この後、風邪で寝込んだ)。なぜ今頃というなかれ。東京新宿の映画館(シネコン)の新宿バルト9で、2週間(11月月末まで)だけファイナル・カット版のデジタル上映をしているからだ。


バルト9は『オリヲン座からの招待状』の公開挨拶を行なったところなのに、いまでは9時50分からの回1回だけというもの、けっこう泣ける。こんな朝早く誰が映画館に行くのか。爺さん婆さんか。『ブレードランナー』はバルト9のなかで一番狭いシアター1(50から70席くらいか)で上映していたが、平日の午後でほぼ満席だったというのも泣ける。こんな古い映画のある意味リヴァヴァル上映(とはいえいま始めてこの映画をみる人がいても、十分に楽しめるものであることはまちがいない)が満席になっている。いっぽう『オリヲン座からの招待状』はどこもオリヲン座状態。泣ける。


ブレードランナー』を最初に見たのは新宿だったが、その後、ディレクターカット版を見たのも、たぶん新宿(とはいえその頃は、いまほど映画を観ていないにもかかわらず、この映画だけは映画館で観ている)、そして今回の「ファイナルカット版」も新宿。


最初に公開されたときと、ディレクターカット版では大きな違いがあった。ディレクターズカット版では、主人公のデッカードハリソン・フォードのナレーションが消えた(そのためフィルムノワール的、ハードボイルド的要素が大幅に弱まった)、また最後の結末部分、デッカーがレイチェルトとともにエアーカーで逃亡する。そしてそのときレプリカントのレイチェルから4年という寿命設定が解除されたというナレーションが入って、二人仲良く幸せな逃避行というよりもハネムーンのような(ヴァンゲリスの音楽付き)ハッピーエンディング(その時の映像は、キューブリックの映画『シャイニング』の冒頭の航空撮影で使われなかった映像(道路が撮影されていないもの)を使っていた)がディレクターズカット版では消えた。


最初の公開版では実はレプリカントのレイチェルには寿命制限がなかったというようなナレーションがあったはず。しかしタイレル社の社長が有機体だから寿命設定ははずれないと、あれほど力説していたのに、最後にレイチェルの寿命設定がはずれるのは意味がないし、いったいデッカードはどこからその技術を手に入れたのかも不明。まあ、こうなったら12月に出るDVD5枚組みを買って確かめるしかないか。そもそも最初にデッカードが日本人の屋台のようなところで食事をするときに、4つ注文するが、スシマスターが「四つは多いから二つにしなさい」と日本語で話し、その後デッカードカップでうどんを食べる。最初あれはカップうどんを四つ注文して、多い(たしかに多い)から二つにしておけとスシマスターから言われると解釈していた。しかし今回見てみて、デッカードは何か指差して4つ注文し、うどんも付けてくれと話している。で、すぐに出されたカップうどんを食べているのだが、何を4つ注文し、多いから2つにしろといわれたのか映像では確認できない。今回5枚組みDVDでは、公開前の試写会で使われたテスト版が収録されていて、そこでは何を注文したのかがわかるといわれている(マニアックなファンはもう知っているのだろうが)。


それからデッカードの同僚ガフが、レプリカントのレイチェルを殺さずにほうっておいたのは、彼女の寿命がまもなく尽きるからではなかったか。そういう意味でディレクターズカット版では最初の不自然な設定を解除して、暗い結末にかえた。そして暗いほうが、全体の雰囲気に合っていた。最後のエンドクレジットではヴァンゲリスの音楽は流れるが、映像はない。死に向かう二人の逃避行が暗示されるだけである。


今回のファイナルカット版がディレクターズカット版とどうちがうのは、残念ながら私の記憶が定かでなく、わからなかった。ただデジタル版なので、音が大きくて、また大きな画面では、たしかに細部がよくみえる。それはちょうとレコードではなくCDを音源とする音楽を始めて聴いたときのようなもので、細部の驚くほどの鮮明さは、再現性への驚異というよりも、人工性・作り物めいた違和感を際立たせていたように思う。調べたところでは最初の映像にあったミスを丁寧にとりのぞき、細部を付け加えたとういうことであるが、天気が急によくなったり、太陽がみえたりみえなかったりすることなどの違和感は、まあどうしようもないということと、そこに象徴的なインプリケーションがあるのだろうから、そのままだが。


とはいえ今回あらためて見て、いくつかのことに気づき、再考に導かれた。そのひとつはデッカードレプリカント説である。


この問題はすでに論じつくされていると思われるが、デッカードハリソン・フォードが実はレプリカントだったという設定である。監督本人がイギリスのテレビ番組でそう語ったらしいのだが、またこの点で監督とハリソン・フォードがもめたという話も伝わっている。しかしいくら監督がそう語っても、また最初の脚本がどうであったにせよ、もう一度考えてみる価値はある。


証拠としてとりあげられるのは、一角獣の折り紙である。デッカードがレイチェルトと逃避行に出かけるとき、レイチェルの足元に(たぶん衣服についていたのだろう)小さな折り紙がころがる。折り紙はガフがいつも折っているもので、デッカードの部屋には、すでにガフが来ていたことの証拠となる。そしてガフはレプリカントであるレイチェルを見逃したということになる。ほうっておいてもレイチェルの寿命はもうすぐ尽きるからというような理由が推測できる。


最初の公開版ではこの点、問題はなかった。ガフはデッカードよりも先に、デッカードがかくまっているレイチェルのもとを訪れていた。しかし、どうせ寿命が尽きるからと放置しておいた。あるいはガフがレイチェルが死んだものと思った。そこで放置していた。しかしやってきたという証拠に、あるいはいつもの癖で折り紙を置いた。この場合、折り紙は、鶴であっても、ウサギでもカエルでもかまわない。そしてレイチェルに寿命の制限は、実はなかったというデッカードのナレーションが入る。残念でした。ふたりはこれから逃げ出します――というのが最初の版であった。


問題はその後ディレクターズ・カット版が、デッカードが夢見る一角獣の映像を追加したことである(最初のヴァージョンから一角獣の映像があったかもしれないが、これは12月以降DVDで確認したい)。つまりガフはデッカードの夢の内容を知っている。これはデッカードレプリカントで見る夢も決まっている。ガフはそのことを把握しているから、デッカードの夢の内容を知っているとして一角獣の折り紙を置いた。折り紙はガフがここに来たという証拠だけでなく、デッカードレプリカントであることをガフが暗示する手段であった。ガフがほんとうのブレードランナーである。デッカードレプリカントだった。


この説明の伏線として、レイチェルが自分はレプリカントではなく子供の頃の記憶をもっていると主張するとき、デッカードが、レイチェルの子供の頃の記憶を言い当てるシーンがある。テレパシーを使ったのではない。レイチェルの埋め込まれた偽造記憶について知っているからだ。おそらくそれはタイレル社の社長の死んだ姪の記憶だろうとデッカードは説明する。誰にも知られることのない頭の中身が知られているということは、当人が作られたレプリカントであるということになる。


これは必ずしも納得がいくものではない。作中のヒントとして、一角獣の折り紙があるが、デッカードが一角獣の夢をみることと、ガフが一角獣の折り紙を作ることは、映画では御馴染みの偶然の一致、あるいはテレパシーとして処理できる。あるいはレイチェルを一角獣と結び付けるような会話がデッカードとガフの間に交わされていてもおかしくない。レイチェルは生粋の処女で、伝説の一角獣が現れてもおかしくないというような会話。実際にそのような会話はないのだが、観客がそのような状況を補填してもおかしくないのだ。さらにいえば、まったく偶然に、ガフとデッカードがレイチェルから伝説の一角獣を連想していてもおかしくない。デッカードがガフに「あんたも、レイチェルをみて、一角獣が登場してもおかしくないというイメージをもったのか。偶然だけれども、面白い」と語るのと、ガフがデッカードに「おまえはレイチェルをみて一角獣の夢を見ていた。おまえはレプリカントなんだぞ」という会話と、どちらがもっとらしいのだろうか。後者がそうだという人はいまい。


デッカード役のハリソン・フォードは、デッカードは人間という設定だったのに、それをレプリカントというのは監督の裏切りであると非難しているらしい。ただしレプリカントと人間の相違は、この作品のなかではきわめて曖昧である。デッカードは、レプリカントのように不死身という面もあるが、同時に、レプリカントとしては脆弱すぎるともいえる――まるで人間とかわりない。またレプリカントは、人間と同じような繊細な感情をもつ有機体=生命体でありながら、同時に、強力なパワーを持つロボットでもあるという二重性をもつ。二重性。曖昧性。ゆえに、どちらに、どうとでもなる。だから映画としては、どちらかに決定するか、さもなければ二重性をあえて強調するという二つの選択肢しかない。


そして二重性の強調を、この映画はある意味で怠っていない。そしてそこから所期の効果も生じている。つまり人間とレプリカントの境界が曖昧なとき、レプリカントも人間なのだという方向に主題が動く。事実、ここで逃亡し殺されてゆくレプリカントたちは、人間と変わらない。人造的に作られた彼らと、神につくられた人間との間に、それほど隔たりはない。レプリカントたちの怒りと悲しみと喜びは、人間のそれを集約している。ところがレプリカントは人間だというのではなく、人間だと思っていたら実はレプリカントだったという話は、かなり落胆的な主題を招致する。レプリカントを人間へと引きあげるのではなく、人間をレプリカントへと引き下げる。この反ヒューマニズムは映画のヒューマニズムに冷水を浴びせかけるようなものではないだろうか。


もしデッカードレプリカントであったとすると、この映画にみられる<フランケンシュタイン・テーマ>は意味がなくなるだろう。いや、この映画が<フランケンシュタイン>テーマを胚胎させていることは確かなことだが、デッカードレプリカント設定は、このテーマとは別の次元に属するものとなる。


とにかくデッカードレプリカントだったらということで話をすすめるが、実は今回のファイナルカット版かあるいはディレクターズカット版から定かでないが、デッカードレプリカントであるという明白な証拠が他にもあるのだ。レプリカントの目がオレンジ色に光るのである。


目、光彩、眼球などは、この映画の主題連鎖となっているため目には注意がいきやすい。デッカードタイレル社の社長を最初に訪問するとき、部屋のなかにふくろうがいる。これはレプリカントだと説明される*1。以後、このふくろうの大きな目は瞳孔がオレンジ色に光る。これは日没の太陽光とか、内部の照明を反射しているのではなかと最初思われるのだが、そうではないとわかる。たとえばレイチェルの目も一時的に光るときがある。レプリカントたちの目も、時折、オレンジ色になる。そしてこれは重要なことだが、デッカードの目もオレンジ色になるときがあるのだ。


ただここまでしてデッカード=レプリカントを強調したかったのかとも思う。なぜならレプリカントの目がオレンジ色の光がでるのだったら、なにもVK法によるレプリカントテストなどまったく必要なく、外見によってレプリカントが簡単に判断できるではないか。そしてこれはレプリカントをマーキングする特色ともなり、ある種の差別的視点を導入するかに見える点でも問題であろう。


だがデッカードレプリカントと暗示的に結びつけるような展開も存在する。最初、字幕がでて、レプリカントが逃亡したこと、その処理にブレードランナーがあたることが簡単に述べられる。そして最後の字幕で、レプリカントを処分するのはretireと呼ばれていることが伝えられて文字ナレーションが終わる。Retireは物(レプリカント)にも人間にも両方に使えることで、それ自体、レプリカントと人間との境界を曖昧にして両者をあわせもつ稀有な単語といえよう。日本語では人間に使う場合は「退職、定年、辞職」という訳語を使い、物の大しては「廃棄、処分」という訳語をあてるが、英語ではどちらもretirementである。Retirementという言葉はデッカードと同じく人間/レプリカントの二重性をもっている。しかも映画のはじまり、ハリソン・フォードが登場するとき、彼はどうも退職retireした元ブレードランナーという設定なのだ。つまりは文字ナレーションが、レプリカントを殺すことは「廃棄処分retire」と呼ばれていたと告げて終わり、つぎに退職してたらしいハリソン・フォードが登場してくるとき、言語の力閾によって、ハリソン・フォードを廃棄処分されたレプリカントと観客は誤認しかねない(たとえ結局は正確な認識だとあとでわかるかもしれないとしても)。そしてやがてハリソンフォードは二度目のretireを遂げる。そのときは廃棄処分された/辞職したレイチェルをともなって。

*1:とはいえ本物のふくろうを、たった一言「レプリカント」だで人工物に変えてしまう、このお手軽変貌は、『メン・イン・ブラック』に登場する犬型宇宙人を髣髴とさせる。ただのワンちゃんのなのだが、宇宙人という設定になっている。