Retirement 2

Retirement 2
(BR3)
(承前)

だが先を急ぐ前に、ハリソン・フォードが抵抗したように、デッカードが人間だったらという設定についても考えておきたい。


ひとつは『ブレード・ランナー』と対をなすかにみえる『ブラック・レイン』(ともにBR)である。近未来のロサンジェルスを舞台として『ブレード・ランナー』(1982)には、あたかもそのアダプテーションかのような近未来的な大阪を舞台にした『ブラック・レイン』(1989)が存在する。『ブレードランナー』には近未来のアメリカに日本語は氾濫していたが、現在の大阪には当然のごとく日本語が氾濫し、その光景は異様な近未来的である。『ブレードランナー』ではハリソン・フォード扮するブレードランナー(原作ではバウンティ・ハンター*1)が『ブラック・レイン』ではマイケル・ダグラス扮するニューヨークの刑事となる。彼は日本にやってくる。異文化接触の物語なので、実はマイケル・ダグラスは日本人でしたということは荒唐無稽すぎてありえない。追うものと追われるものとは、しっかりと分離される。


物語には類似の暗示はある。『ブレードランナー』でスネークウーマンが身に着けていた蛇のうろこは、『ブラック・レイン』では漁業卸売市場の近くに下宿しているらしい犯人の愛人の女をつきとめる手がかりとなる魚の鱗になる。『ブレードランナー』ではレプリカントがルトガー・ハウワーが最後にハリソン・フォードの命を救うが、『ブラック・レイン』ではマイケル・ダグラスは、凶悪な松田優作の命を救って殺さない。


こうした差異を伴う類似はあるが、『ブラック・レイン』は異文化物であるために、全体の構図がシェイクスピアの『テンペスト』に依拠している。『テンペスト』では孤島に娘ミランダとたどりついた魔術師のプロスペローが、よき妖精のようなエアリルを使いこなし、怪物的キャリバンと対決するが、『ブラック・レイン』ではマイケル・ダグラス=プロスペロが、友人の刑事アンディ・ガルシアミランダと日本にやってきて、高倉健=エアリルの助けを借りて、凶悪な犯罪者松田優作=キャリバンを追う。『テンペスト』ではキャリバンはプロスペロの娘ミランダをレイプしようとして、プロスペロの怒りをかうが、『ブラック・レイン』では松田優作は、マイケル・ダグラス=プロスペロの友人であるアンディ・ガルシアミランダを殺害して、ダグラス=プロスペロの怒りを買う。またキャリバンの怪物的誕生は、『ブラック・レイン』でも踏襲される。アメリカの空襲後の黒い雨のあとで誕生した怪物的世代の代表としての松田優作というかたちで。さらに『テンペスト』ではプロスペロは故国を追放され、また復讐の鬼と化したところをエアリルに諭されるところがあるが、『ブラック・レイン』でも、マイケル・ダグラスは悪徳警官としてニューヨークを追放されたところもあり、またそのやりかたを高倉健から批判されるところもある。


ブラック・レイン』はことほど左様に『テンペスト』のコロニアル・ポストコロニアルアダプテーションだが、こうした設定のなかでは、アメリカ人と日本人が互いに友情で結ばれることはあっても、実はアメリカ人とみえたものが日本人でしたということにはならない(強いて言えば、松田優作は日本人だがほんとうはアメリカンなんだという暗示がある。悪すらも土着ではなく輸入されたものであり、すべての淵源はアメリカにあるというオリエンタリズム的構図はあるだろう)。『テンペスト』的設定は『ブレードランナー』とは無縁である。


いっぽう、追うものが実は追われるものだった。レプリカントを追うブレードランナーデッカードハリソン・フォードが実はレプリカントであったという設定は、物語としては珍しくない。同じくコロニアアル・ポストコロニアル的設定の映画として『ロスト・メモリーズ』(日本・韓国合作映画2001)をあげることもできる。21世紀になってもいまなお日本が朝鮮半島を占領植民地支配しているという近未来パラレルワールドSFでは、独立解放のために日本総督府に攻撃をしかけるテロリスト(日本側からすれば)と戦う刑事である有能なチャン・ドンゴンが、みずからの行動に疑問をもち、仲間を弾圧しているのではないかと民族意識に目覚め、反政府テロリスト側に身を投じてゆく映画である。


日本の右翼ファシスト勢力には評判が悪いこの映画を、エンターテイメントとして、日本人であってもじゅうぶんに楽しめるのは、21世紀になっても日本に占領されているというのは半島の人たちにとってはとんでもない地獄だろうが、日本人にとっても地獄であるからだ。21世紀になっても半島を植民地支配する日本の一部勢力は、必ずや国内においても国民を弾圧しているファシズム体制を敷いているだろうから。植民地帝国主義は、海外植民地の原住民のみならず、自国の国民をも植民地化するのである。半島の人たちにとっての地獄は、日本人にとっても地獄であり、植民地支配勢力と戦うのは、植民地原住民にとっても本国の国民にとっても同じことなのである。


だからこの映画において半島を支配する悪辣な日本総督府に戦いをしかける側に、日本人として同調するのはまったく自然である。もしこの映画(基本的にエンターテイメント映画)を楽しめない日本人がいたら、それはかなり怖い人間である。植民地体制を支持し、原住民を弾圧するのを当然と認めるのだから。自由の価値を一考だにしないのだから。ただ狂気の若者が増えているのは事実だけれども、それは今回は知らん顔をしておこう。なお、この映画では解放闘争がテロ活動とみなされているため、テロとの戦いとはどういうものかをあらためて考えさせられるものとなっている。


ただそれでもやや引いてしまうのは、この映画において、パラレルワールドが誕生したのは、伊藤博文暗殺が失敗に終わり植民地支配が永続化したという設定である。パラレスワールドを消滅させるには、暗殺を成功させねばならない。そのため暗殺を阻止ではなく実現することが民族の解放と植民地支配の終わりを意味することになるのだが、これは後味はよくない。たとえば伊藤博文は半島の植民地化に消極的だったため暗殺によってかえって植民地化は強化されたとか、暗殺は実は日本が仕組んだものだとか、いろいろな説を出して、近未来エンターテイメントSF映画(そう、たがか映画)に反論しようとする勢力があるが、私はそれではない。もし伊藤博文を暗殺することで、植民地支配が終わり世界が正常化するというのなら私は喜んで暗殺を支援する。しかし物語としては、たとえば志し半ばにして倒れた民族解放の英雄が、あの時、殺されなかったら、世界はよくなったという設定のほうが心地よい。機械勢力と人間が戦っていて、機械勢力はタイムマシンによって人間側の指導者を過去において抹殺しようとするが、それを阻止するためにべつのロボットがタイムマシンで送り込まれ、なんとか殺されないよういにするというのが『ターミネーター』(1984,93,2003)の設定だった。暗殺を阻止するというこの設定のほうが、映画としてはすわりがいい*2


『ロスト・メモリーズ』と『ターミネイター』を組み合わせると、『ブレードランナー』の特徴がみえてくる。追う者が追われる者になってゆくという設定(『ロスト・とメモリース』)と、ロボット暗殺者にロボットでもって対抗するという設定(『ターミネイター』)。つまりデッカードがなぜレプリカントでなければいけいないのかという問題は、レプリカントを処分する仕事は、殺人に等しく、汚い仕事である。また逃亡奴隷で追い詰められていて、しかも身体能力が通常の人間よりも高いレプリカントと対峙するのは危険きわまりない仕事である。そのために人間ではなくレプリカントにやらせたということのようだ。追われ処分されるレプリカントに迫害されるユダヤ人の姿を重ね合わせると、デッカードはさながら絶滅収容所で同じユダヤ人でありながら、死体処理など汚い仕事をまかされたゾンダーコマンドZonderkommandoにみえてくる。彼は同胞の処理人である。現実のゾンダーコマンドは、その汚い仕事と引き換えに、ガス室送りになるのを延長され、またその間、毎晩宴会ができるような特別待遇を受けていた――まあ映画『灰の記憶』(Grey Zone(2001年,日本公開2003年))を観ての知識だが。


俳優でもあるティム・ブレイク・ネルソンが、シェイクスピアの『オセロ』を現代のアメリカの高校に置き換えた『O』(2001)を作ったあとの収容所物映画『灰の記憶』*3の原題は英語でGrey Zone。日本語のタイトルは『灰の記憶』でなんだかジャック・デリダの本のようなタイトルになっているが、まあこの文科省推薦映画の日本公開時タイトルは、日本語のすわりを考えたのだろう。「灰色の領域」は、プリモ・レーヴィの読者ならすぐにわかるはずであるが、これは被害者と加害者との境界が曖昧になる現象や領域のこと。まざにゾンダーコマンドを扱うにふさわしい映画のタイトルなのだが、『ブレードランナー』におけるレプリカント/人間問題の政治的無意識は、最終的にはこの灰色の領域に帰着するのではなかと考える。

つまりデッカードは、ある意味でひとりゾンダーコマンドである。彼は人間であると思い込むだけでなく、レプリカントを処分する仕事と引き換えに、安楽な生活を保証されている。デッカードの部屋の壁とか柱にあるマヤ調の意匠は、旧帝国ホテルに見出されるフランク・ロイド・ライトの意匠をそのまま使っているのだ。とはいえ裕福で安逸な暮らしかどうかは映像からは比較の対象がないので、明確なことはいえないのだが。ともあれゾンダーコマンドのユダヤ人がガス室送りを免れていたのではなく、延期されていたことは、彼らもレプリカントと同様、通常の人間よりも寿命が短かいということなのである。ゾンダーコマンドでは6ヶ月くらいの延命が認められていたようだが、6ヶ月にせよ、あるいはレプリカントの4年という寿命にせよ、彼らレプリカントは、レイチェルは、デッカード強制収容所ユダヤ人と同様、処分される直前のつかのまの人生を生きているにすぎない。デッカード自身、用済みになる直前の猶予期間として人間として暮らせるようになっているだけである。


そういえば『灰の記憶』では、かろうじてガス室を生き延びたユダヤ人の少女を、ゾンダーコマンドの連中がかくまうという話だが、『ブレードランナー』もまた、レプリカント処分を仕事とするゾンダーコマンドであったデッカードが、レプリカントの少女を保護して逃げるという話なのである。迫害するものを救済する。追うものが追われてゆく。信頼と裏切り。加害者と被害者、それら渾然と一体化する「灰色の領域」――『ブレードランナー』もまさにその系譜にまちがいなく連なっているのである。


だが灰色の領域はジェンダー領域にも登場する。(つづく)

*1:西部劇に出てくる賞金稼ぎのことであるのはいうまでもないが、あるネット上の日本人のサイトでは原作では「バウンドハンター」となっていてboundが問題なのだと書いてあった。あほか。こんな馬鹿に解説してもらいたくないわい。

*2:もちろんすわりの問題ではなく、民族意識の問題であるということで、あえて暗殺成就をテーマとして選んだ韓国映画における、歴史的怒りは理解しなければいけない。また、この映画の底流にあるのは戦時中の日本協力者問題であろう。

*3:なお『O』の公開が遅れたので、どちらの作品が先に作られたかわからなくなることもあるが、『O』は20世紀に完成していた。