黒い真珠


昨日も映画館で失敗したが本日も映画で失敗をした。


まあ私が予習していなかったのが悪かったのだが、またそんなことも知らなかったのかと恥をさらすしかないのだが、2002年にパキスタンアメリカのジャーナリストが誘拐され殺害された事件は、なんとなく記憶していた。しかし当時も事件をよくフォローしていなかったのは恥ずかしい限りだが、今回の映画はまさにそれが題材だった。


しかしマイケル・ウィンターボトム、何を考えているのか? たんにあのスミス馬鹿夫妻に騙されたのではないのか。あるいは、そこになにか深いたくらみがあるのか。


今日、気づくと近くのシネコンでやっている『マイティ・ハート』は明日以降は午前10時の回しかない。他の映画館では本日が最後のところが多い。マイケル・ウィンターボトムは社会派だけれども変態監督で大好きなので、見逃すわけにはいかない。あわてて午後の回に出かけた。いろいろな仕事をほっぽりだして。まあシネコンのそのシアターには、最初私ひとりしかいなくて、貸切状態かと思ったが上映直前にもう一人入ってきた。私は最後列に座った。小さな部屋に巨大な画面なので、最後列が一番見やすい席である。


以前、ウィンターボトムの『9songs』のDVD(アメリカ版)をぼんやりみていてたら、ポルノだとわかって、いたく感激したことがある。ポピュラーミュージックに詳しければ、その映画ももっと楽しめたのでは思うと同時に、ポルノ映画に出演する男優はチンポコがほんとうにでかいと、ひどく驚いた経験がある。主人公は南極探検をしている科学者なのだが、通常のインテリからは想像できないほどチンポコでかい。とまあこんな意外性を楽しんだのだが、今日は、ヒューマンドラマで感動させてもらおうと席についたところ、見終わった頃には意外性のためはっきりいって憤慨していた。


パキスタンでテロリストに誘拐されたアメリカ人ジャーナリスト。残された妊娠中の妻とジャーナリスト救出に奔走するパキスタンアメリカの関係者たち。そして悲劇的な結末。しかしそれを乗り越えけなげに新しい人生と社会活動をつづける母子(ポスターなどで使われているアンジェリーナ・ジョリーの姿は、事件後、フランスで幼い子供と暮らしている最後の場面からとられている)。こういう映画に何を憤慨していると思われるかもしれない。


李下に冠を正さずという中国の諺がある。「スモモの木の下で冠をかぶりなおそうとして手を上げると、実を盗むのかと疑われるから、そこでは直すべきではない」という意味から、さらに「人から疑いをかけられるような行いは避けるべきだ」というたとえなのだが、この映画のジャーナリストは李下で冠を正しすぎている。


この諺の行為は逆用できる。つまり泥棒が、李下で実をとろうと手を延ばしたのだが、見咎められて、いや冠を正そうとしたのだ。まぎらわらしいことをしてごめんなさい。でも実を盗もうとは夢にも考えなかったと弁解したとしよう。その泥棒の行動をずっと観察していたわたしたちは、おそらく、何をいいやがる、この泥棒めと、はき捨てるようにいいたくなるのではないか。それがこの映画をみた私の感想である。


映画をプロデュースしたのはブラッド・ピットとアンジェリーナ・ジョリー夫妻なのだが、ふたりが主演した『ミスター・アンド・ミセス・スミス』という映画を思い出した。夫婦が二人ともスパイという設定だった(パートナーがスパイだということはあとですぐにはわからない)。ところでこの映画『マイティ・ハート』のなかで誘拐され殺害されたアメリカのジャーナリストは、映画の途中ではユダヤ人だかということでモサドの協力者とまちがわれ、アメリカ人だからということでCIAのスパイと思われたりと不運な無辜のジャーナリストという扱いなのだが、映画の最後で、このジャーナリストが首を切られたビデオのなかで話した有名な「父もユダヤ人、母もユダヤ人、自分もユダヤ人である」云々をめぐる映像が出てくるに及んで、この『ウォールストリート・ジャーナル』紙の記者は、ユダヤ教徒の筋金入りのシオニストモサドのスパイではなかったかという気がしてくる。結局、不運なユダヤ人、イスラエルかわいそうプロパガンダ映画ではないかという気がしている。ウィンターボトム、なんとうくだらない映画を撮ったのだ。


そもそも映画のなかで誘拐したテロリストたちの要求はクアンタナモに収監されている仲間の釈放と待遇改善であった。クアンタナモといえばウィンターボトム監督の前作を思い出すことができる。この前作も、これも不運なかたちでテロリストとして間違われて逮捕されたアラブ人が経験する虐待の数々というかたちで、テロとの戦いの時代にまきこまれる無辜の民というテーマでは今回の映画と共通している。しかし『マイティ・ハート』では最後のほうに当時の国務長官パウェルが、クアンタナモの囚人たちは人間的な扱いを受けているという宣言するニュース映像を出してきているため、しかもそれに対して何も批判が加えられていないため、これでは監督自身の前作を否定するものになっている。ウィンターボトムは馬鹿夫婦に騙されたかのか、あるいは金をもらってアメリカに魂を売ったのかと疑いたくなる。


しかし、ぼんやりみていても、このジャーナリストはやはりスパイじゃないのかと思えてくるのは、私の洞察力のなせるわざではなくて、映画の力である。そう、途中まではユダヤ人だからといってモサドにまちがわれたり、アメリカ人だからといってCIAの手下と思われるのはえらく迷惑な話だと思われるのだが、しかし、最後のほうになって、くりかえすがただのユダヤ人ではなくてユダヤ教徒の筋金入りのシオニストだとわかってくると、にわかに見える景色がちがってくる。彼は『ウォールストリート・ジャーナル』紙の取材で得た情報をアメリカ政府に渡している。日本のジャーナリズム関連のサイトが、ジャーナリストが受ける試練と苦難としてこの映画を好意的に評価していたのはおかしい。政府に情報を売るジャーナリストを評価するなんて、ジャーナリストの自負はどこにいったのかといいたい。


いやこのパール夫妻を助ける若い女性アーチーは、インドに実家のあるイスラム教徒で、パキスタンではインドのスパイかと疑われるのである。これも同じパタンで、ただユダヤ人だからといってモサドの関係者と疑われる、アメリカ人だからといってCIAのスパイと疑われる、李(スモモ)の木の下で冠を直そうとしただけなのに、実を盗もうと疑われる。だが誘拐後、このインド系イスラム教徒の女性の瀟洒な邸宅が、アメリカ、パキスタン関係者の司令室になる。アンジェリーナ・ジョリーのもとに夫の同僚や上司といったジャーナリスト関係者だけでなく、アメリカ大使館の軍関係者やFBI関係者、そして拷問が許されている秘密警察の主任(長官だったか)が集まる。たしかに後半、手に汗握る展開とはなる。しかし、その熱気からふと一歩下がると、どうもこれはジャーナリストが政府関係者と一体となっておこなうテロとの戦いのミニ版ではないのかと思えてくる。ジャーナリストは事件の背景なり双方の主張を冷静に考慮することなどすっかり忘れ、ひたすら政府、軍、警察関係者の協力者になりさがっている。どうやら、これは李の木の下で、冠を直そうというふりをして、実を盗もうとする泥棒たちの集団じゃないかという気がしてくる。


こうしたチームが一丸となってテロとの戦いに奔走するとき、キリスト教徒であろうが、イスラム教徒であろうが、仏教徒であろうが関係なくなる。アンジェリーナ・ジョリーはこの映画のなかでは仏教徒であって「南無妙法蓮華経」と唱えるところがって、面白いのだが、面白がってばかりはいられない。彼女はフランス人女性という設定である。そのフランス人が「南無妙法蓮華経」と唱えていたとしたら、これは絶対にそうだとはいえないにしても「創価学会員」である可能性が強い。サッカー選手の中村俊輔が日韓W杯に日本代表に選ばれなかったのは、トルシエ監督が創価学会員である彼を選ぶのを拒んだというのは、噂だとしてもきわめて信憑性の高い噂である。いうまでもなくフランスでは創価学会はカルトとして認定されている。まあフランス人からみればアンジェリーナ・ジョリー演ずる女性は、胡散臭い人物なのだ。


結果としてこの映画に出てくる人物は全員、胡散臭いのである。ひょっとしたらを超えて、むしろかなり確実なかたちでダニエル・パールはモサドのスパイではなかったのだろうか。タリバン政権が倒れ、アフガニスタン侵攻が終わって特派員たちがパキスタンを去ってゆくとき、残って取材を続けようとする特派員が、ただのユダヤ人ではなくてユダヤ教徒シオニストであったととき、どうなるのか。無実の人間がとばっちりをうけて殺されるという話ではなくなる。スパイだから協力者だから殺されて当然などとは夢にも思わないし、テロは絶対に撲滅すべきだが、自爆テロに走る若者たちの絶望が理解できるというのと同じく、シオニストでのジャーナリストが決して無実のジャーナリストではないこと、その人物がスパイとして殺される理由もできるのである。


映画ではパキスタンカタールの混沌とした都市が印象的である。しかも車の中から眺めるシーンが多い。観光客である。紛争、テロ多発地域の観光旅行をこの映画は体験させてくれる。逆にいうと現地の人々の生活に触れることはないし、現地の人々の意見が語られることもない。また犯人と思しき者たちも、9・11の実行犯たちと同じく、それなりに裕福な暮らしをしている、すくなくとも中流の階層の人間たちであって、貧困にあえぎ未来を奪われている(自爆テロに走るような)若者たちにはみえない。むしろテロあるいは誘拐行為に走る理由がわからなくて、不気味である。不気味なテロリストというおなじみの扱いなのだ。またアンジェリーナ・ジョリーもけっこう軽々しくテロリストたちとアルカイダとの結びつきを強調する。テロとの戦いを象徴し、不運なユダヤ人の悲劇というプロパガンダ映画である。


おそらく監督にしてみれば、ユダヤ人でありユダヤ教徒アメリカ人、そのユダヤ人と結婚したフランス人の仏教徒、インド系のイスラム教徒といったハイブリッドな存在たちが、そのハイブリッド性を尊重されず配慮されることもなく、胡散臭い扱いをされ、ときには犯罪者、スパイ扱いされる悲劇と不幸を描くことが目的であったのだろう。しかも夫の死を知らされて文字通り号泣し泣き叫ぶアンジェリーナ・ジョリーは、号泣シーンが再度出てきてフラッシュバックかと思うとそうでない出産の場面において、新しい命がうまれるときの産みの苦しみの叫びへと移行し、死と生との交替が実現する。絶望も希望へとつながる。死と生とのハイブリッド。それがこの映画のメッセージなのだろう。まあ口当たりのよい。


しかし、たとえ監督が意図しなくとも、この映画には地雷がばらまかれている。あるいは意図的であったとしたらかなりすごいのだが、いまやイスラエルユダヤ側に聖化され、悲劇の殉教者扱いされ、テロとの戦いのアイコン的扱いもされているダニエル・パール事件が、そうではなく胡散臭さ100パーセントの危険な事件であったことを、この映画がそれとなく知らせるものであるとしたら、貴重な時間を返してくれという私の気持ちも、すこしは沈静化するのだが。


(残念な映画だったが、映画には馴染みの俳優が出ていてその点は楽しめた。
1)ダニエル・バール役(Dan Futtermanファターマン)は、フィリップ・シーモア・ホフマンが主演した『カポーティ』(ベネット・ミラー監督)の脚本も書いている。同じカポーティ物でもInfamousよりはミラー版の『カポーティ』のほうがずっとよかった。


2)インド系ムスリムの女性アスラ・ノマニを演ずるのはアーチー・パンジャビ。プログラムによると、『ベッカムに恋して』の主役の女の子を演じている。まったく気づかなかった。まあ、大きくきれいになったという常套的な褒め言葉がぴったりである。彼女のデビュー作は『ぼくの国、パパの国』映画版だそうだが、この映画、英文学史の教科書にも出てくるので私の授業では紹介したし、私も見たのだが憶えていない。彼女は『ナイロビの蜂』にも出ているのだが私は憶えていない。ウィンターボトム監督の『Code46』にも出ているのだが、私は憶えてない。記憶喪失者だ。


 いや、いま調べたが、彼女はプログラムにあるような「『ベッカムに恋して』でサッカーで成功を夢見る少女役を好演して高い評価を得た」のではない。1972年の生まれの彼女は、『ベッカムに恋して』の少女役を30歳で演じたことになるが、それはむりでしょう。主役の少女の、結婚するお姉さんの役ではなかったか。もうプログラムまで記憶喪失じゃ。


3)パキスタンの秘密警察のキャプテンを演ずるイルファン・カーン。ミーラ・ナイール(とプログラムに表記)監督の『サラーム・ボンベイ』で映画デビューとあるが、ナイール監督の映画はほとんどみているのだが、覚えていない(ボンベイがムンバイに変わってしまってからこの映画の記憶も薄れたのか)。ナイールの『その名にちなんで』にも出ているらしいので、今月の終わりには映画館で再会するだろう。ウェス・アンダーソンの『ダージリン急行』にも出演とのこと。この映画の予告編は、昨日見たのか今日見たのか、ああ、忘れてしまった……(たぶん今日行ったシネコンでは上映しないだろうから、昨日のシャンテ・シネのほうか?)。


4)ウィル・パットンは、悪役が多いのだが、ウィンターボトム監督作品ではハーディの『キャスターブリッジの市長』のアダプテーションであるThe Claimの市長役があるじゃないかと思ったら、あれはPeter Mullenだった。もう記憶ごちゃごちゃじゃい。『ポストマン』での悪役が私には印象的だった。ケヴィン・コスナーと戦っている。