Nothing will come out of nothing


ティーヴン・フリアーズ監督の『クィーン』を観た。実はこの映画はアメリカ版のDVDで観ていて映画館で観なかったのだが、今回、日本版DVDで見ることになった。以前DVDでみた時には気づかなかったのだが、今回、日本版DVDを日本語字幕でみていたら(英語字幕はなかった)、驚いた。


ブレアが首相に就任してから、「憲法改正」をもくろんでいるとか「憲法解釈」なんて言葉も日本語の字幕に踊っている。はあ? これはもう、字幕作成者も映画会社も、日本の改憲勢力たるファシストの豚どもに洗脳されたとしか思えない。字幕作成者だってミスはする。しかし映画会社の誰でもいいから、気づけよ。このバカタレ。


イギリスには憲法はない。ない憲法をどうやって改正するのだ。憲法解釈だと、馬鹿者、ない憲法をどうやって解釈するのだ。


Constitutionとかconstitutionalという英語を字幕では「憲法」「憲法上」と訳している。アメリカとか日本の場合にはconstitutionといえば憲法だけれども、憲法のないイギリスの場合は、政体とか国家社会形態とか法令という意味になる。イギリスの場合、「憲法」とはならない。最初から存在しないのだから。


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映画そのものは、わかったような、わからないような映画で、なんともいいようがないのだが、俳優と実在の人物との類似と相違から生まれる距離感がそのまま映画の内容を反映していたとでもいえようか。つまりまあ、そういうことが起こったのだろうと、類似性に思いをはせつつ、でも違うだろうと一歩引いてしまうような、その引きと引き戻しのゆらぎ感覚が映画の特徴とでもいえようか。


実際、そのでなかったら、これはただ女王を擁護しているだけのくそ映画にすぎない。またDVDのインタヴューの中で監督が言っているように俳優たちには物まねを要求しなかったという。マイケル・シーンはトニー・ブレアと似ているかというと、まあ、似ていない。クィーンズ・マザーは、まあ、その性格など知るよしもないが、外見からすれば、映画に出てくるような鬼婆ではない。ヘレン・ミレンエリザベス女王はというと、貫禄で女王にみせてしまっているだけで、そんなに似ていない。ジェイムズ・クロムウェル演ずるフィリップ殿下は、まったく似ていないし、クロムウェルの演技は、イギリスの女王の夫というよりもテキサスのレッドネックじみていて現実感がない。アレックス・ジェニング扮するプリンス・チャールズは正面からみると全く似ていなくて、どう想像力をはたらせても現実のプリンス・チャールズを思い浮かべることはできないのだが、後ろ姿というか、後ろからのたたずまいは、後頭部のはげ具合、立ち姿、歩き方も含めて、プリンス・チャールズそっくりで、これには笑った。似てる、いえ似せているぞ。


似ていないけれども似ているというのがこの映画の罠であろう。ダイアナの死は全世界にショックを与えたし、私はいまでも彼女の死は陰謀によるものと信じているが、またダイアナ自身、問題のある人物だったし、悲運の元王妃というだけではすまされない暗黒面があったし、スペンサー家自体、また彼女の弟もいかがわしい人物だし、ブレアのいうようにpeople’s princessとして括ることはできない面が多く、その彼女に対してイギリス国民があれほど嘆き悲しんだというのは集団ヒステリーとしかいいようがなく、この点で彼女の死に対して冷淡だったイギリス王室の姿勢は理解できないわけではないのだが、ただそれにしてもいくら王室を去ったからといって、ダイアナの死後、ロンドンに帰ろうともせず、スコットランド日課のように毎日鹿狩を続けている王室の人間は、どうみても屑連中だと思い始めると、わたしたちはこの映画の罠にまんまとはまることになる。


なぜなら、こうした頑なな姿勢を崩そうとしない王室の人間たち、庶民感情とどんどんずれてゆく彼らのなかで、唯一、エリザベス女王だけは別格で、ある種の英断によって譲歩した、人間味のある女性というかたち立ち上げられるからであり、王室の人間といっても、国家や国民への配慮をみせるのは、女王ひとりだけだということになり、王室と庶民との間に広がった亀裂が修復されるのである。


ダイアナの死に対して嘆き悲しむ国民と、それに冷淡な王室との対立は、まさに一発触発の危機的様相を呈していて、王室無用論が噴出して大きな運動となっていたかもしれないのであって、女王の譲歩はみずからの保身以外の何者でもなかったにもかかわらず、女王の苦渋の決断として物語を完成させたのである。また王室無用論がでてきて、危機意識を募らせたのは、王室ではなくて、あろうことか労働党内閣の党首たるトニー・ブレアであって*1、ブレアが困りはて、そこで女王がブレアと国民のためを思って英断を下し、人間味溢れる譲歩したということになる。しかし国民の悲しみは、ダイアナが暗殺されたのではないか、それも王室関係者にという不信感によっても増幅されたのであり、事態は革命の一歩手前まで(映画のなかでブレアが嫌悪した「革命」)きていたのであって、すんでのところで王室は、女王ただひとりの存在によって持ちこたえたということになる。女王と労働党党首とが革命への熱狂を覚ましたのである。


たとえば王室のしきたりなのだから、王室を去った人間の葬儀は、王室では行なえないとかいうことは、そもそも王室を去った人間のうち、王位継承者に関係のある人間というのは、そんなにいないから、しきたりもなにもあったものではないし、エリザベス女王の場合、いわゆるウィンザー公の問題がある。ウィンザー公は、女王にとっては伯父であり、血がつながっていないダイアナとは違うのかもしれないが、しかし、王位を去った人間に対して、シンプソン夫人ともども、エリザベス女王は過去に異例の厚遇をしているのである(制度的に退位はしていないという議論もあるらしいが)。そもそも、しきたりなどというものは、つねに捏造され、しきたりを主張する人間の数だけしきたりが存在するといっても過言ではない。ダイアナの死をめぐる、王室のかたくなさは伝統にとらわれているのではなく、ただの悪意である。まあ王室関係者が殺したことにもその原因があるのかもしれないし。


トニー・ブレアと私は同い年である。むこうのほうが数ヶ月年上だが。トニー・ブレアと私のとの共通点は、どちらもいんちき左翼などゆうたら怒るぞ。そうではなくて、母親がエリザベス女王と同い年であるということだ。映画のなかでブレアの妻が、あなたが女王にこだわるのは、マザコンだからではと問う瞬間がある。あなたの死んだ母親も女王も同い年だから、と。もしそれが正しければ、トニーブレアの母も、私の母も、エリザベス女王と同い年である(女王のほうが、私の母よりも2ヶ月年上であるが)。私の母も生きていたら、女王と同じ年齢だとは常々感じている(ちなみにチャールズは私よりも年上だが同じ蠍座で、誕生日は二日違い、「私の誕生日」「キムタクの誕生日」「チャールズの誕生日」である。まあどうでもいいことだけれども)。


なお女王物としては、この映画の女王は女王ではない。ほんとうのディーヴァなら、ダイアナの死などけちらして、王室の者たちが、どんなになだめても葬儀には関与しないといいはり、王室の存続を危機に陥れてもかまわないくらい暴走するところを、王室関係者や政府関係者が必死でなだめて、インタヴューで、ダイアナ妃の死についてどう思うかと問われ、「別に」と沢尻えりか状態になりつつも、国民向けの声明を棒読みするという「女王様」を期待したが、それはなかった。そうしなかったのは、そのような冒険ができないまでん、あるいは真実を語ることができないまでに、そこまでイギリス王室は追い詰められていたのである――アラブ人の武器商人(といわれているが、真偽は定かでない)と再婚しそうだということで王室に殺されたダイアナの呪いゆえに。

*1:映画のなかではクィーンズ・マザーからあの「チェシャーキャットのニヤニヤ笑い」と揶揄されていてた。字幕では「ニヤニヤ笑い」としか訳していなかったが。