ねずみ年といえば

あるいはResistance is futile


銀河ヒッチハイク・ガイド』によれば、地球で最も頭のよい動物はネズミで、三番目に頭がよいのが人類ということなので、今年は、ネズミ年だということもあり、日本では、地球の真の支配者を寿ぐ一年になりそうである。ちなみに二番目に頭がいいのがイルカだそうである*1


映画ではネズミが地球上で最も頭のよい動物であるということは、はっきり示されなくて残念だったが、そもそも映画版は『銀河ヒッチハイク・ガイド』だけでなく『銀河の果てのレストラン』(原作ではシリーズ第二作)も入れてたりしてアレンジしていあるので、まあ、原作とはなれてもしょうがないか。


映画版のアレンジといえば、驚くのはスタートレック(セカンド・ジェネレーション)のヴォーグが入っていること。実際にはスタートレックが後なのだれども、それのパロディとしてヴォーグもどきが登場する。ヴォゴン人がそれである。そもそもこの『銀河ヒッチハイク・ガイド』シリーズのほうが先だから、まねしたとしたらスタートレックのヴォーグのほうなのだが、『銀河ヒッチハイク・ガイド』映画版でのヴォゴン人は、スタートレックのヴォーグと似ているところがある。ひとつはその宇宙船。原作では醜悪でグロテスクな塊のヴォゴン人の宇宙船は、映画ではヴォーグの宇宙船のように巨大な立方体である。


またスタートレック(セカンド・ジェネレーション)のヴォーグが、よく口にするのが「抵抗はむなしい」Resistance is futileというフレーズだが、『銀河ヒッチハイク・ガイド』でもヴォゴン人が、なんと「抵抗は無駄だResistance is useless」というのだ。ヴォーグをふまえていることは歴然としている。


ところで私の座右の銘は、このスタートレックのヴォーグの言葉から取られている。すなわち抵抗はむなしい Resistance is futile.


なんと敗北主義的なというなかれ。Resistance is futileという言葉は、抵抗への激しい意欲をかきたてる。保証された抵抗、求められている抵抗、可能な抵抗、そんなものは抵抗などではない。抵抗できなから、抵抗はむなしいから、抵抗は無駄だから、だから抵抗する。それが真の抵抗なのだから。


昔、大学の連続講義のゲストして招かれて一回講義をしたとき、講義のあとで、フランス文学か思想を専攻しているという大学院生がやってきて、抵抗というのはできないのですよとコメントしてくれた。誤解のないようにいっておくと、私はその講義で、抵抗がどうのこうのという話はしていない。そもそも抵抗という言葉は一度も使っていない。イメージとジェンダーの関係をビデオ映像を交えて話しただけで、抵抗せよとか、抵抗の実例など全く話していない。にもかかわらず、その院生には、どうしたわけか、私が抵抗を呼びかけたり、抵抗していると思ったらしい。思うのは勝手だが、わざわざそれをコメントしに来るというのは、わけがわからない。危ない人間にはみえなかったのだけれども、やっていることはあぶない感じがしたので、その時は、ああそうですかとあしらった。私の話のどこに抵抗について触れた部分があるのですかと聞いてもよかったけれども、相手にしないほうがいいと思った。


その院生も肩透かしをくらったのかもしれないが、たぶん、わたしが何か反論すれあ、抵抗はできないことを理論的に論証するつもりだったのかもしれない。抵抗できないというときに、何が含意されているかといえば、相手が強大で、まるっきり歯が立たないという場合、あるいは逆に相手が柔軟すぎて、抵抗をすべて回収して、秩序の側に役立ててしまって抵抗を無効化する場合だろう。とくに抵抗しているかにみえて、敵側の役にたっているというのは、かなりつらい状況でもある。この点を、抵抗勢力に納得させれば、抵抗勢力もかなりめげるのではないかということになる。


だが、それは抵抗の本質を全く誤解している。いくら全宇宙を敵に回しても、何をしても相手に利用されても、それでも、そんなことおかまいなしにするのが抵抗である。抵抗できなからこそ、抵抗する。そしてこの抵抗の前に、いかなる理論化も合理化もむなしいのである。


たとえ千年つづいていも、だめなものはだめだといったのはカントだったが、抵抗とはたとえ1億年つづいても、それがだめだと否定するのが抵抗なのである。抵抗はむなしい。私はこの言葉を耳にするたびに、この言葉を読むたびに、抵抗への意欲をかきたてられるのである。

*1:本当にそれが真理として書かれているのではなく、そういう設定になっているというだけなので念のため。