鹿鳴館

テレビで三島由紀夫の『鹿鳴館』をドラマ化したものを放送していた。見なかったのだが、時間的余裕がなかったわけでもなく、ただ演劇的緊張感のないつくり方を好まなかったのと、あれは、ある意味、ゲイ文化において特権的に扱われる「女王様物」〔私自身12月のブログで集中的に取り上げたテーマでもある--現時点で未アップ〕でありながら、途中で女王に変身しても、最後には挫折しているようなところがあって、ややものたらない。政治と女王様との関係からいえば三島由紀夫の小説『宴の後』が、その典型ではないかと思うのだが。


ただ『鹿鳴館』は嫌いな芝居ではない。以前、ブログで映画『チョコレート』(Monster's Ball)の話しを少し書いたとき、最後に、銃声でも聞こえれば、印象が違うかもしれないと書いたのは、その時は、全く気づかず、思い出してもいなかったのだが、最後の銃声は『鹿鳴館』のことが頭にあったのだといまになってみればわかる。


鹿鳴館』は、1日の出来事といっても、前半と後半で場所が変わるから、テレビドラマ的にいろいろ加工できる余地が多い作品かもしれない。しかし芝居が原作だから、むしろ演劇的にドラマを作ってもよかったのではないかと思う。


というのも、映画と演劇は、対立するふたつのジャンルではなく、むしろ演劇は映画のなかでこそ、その可能性を最高度に実現するものだというのが、近年の私のテーゼであって、そのことを、どう論証したらいいのか、いつも考えている。映画は、演劇以上に、演劇的になりうるというようなことを、ドゥルーズがどこかで言っていたような気がするが、まさにそれこそ私のテーマである。


たとえばもう、古くなってしまったが、ドグマ95によって、映画に映画らしさとりもどそうという北欧の映画運動が目指したのは、演劇的な映画ということだった。ドグマ作品の第1作『セレブレーション』は、一族が再会した邸宅の午後から翌朝にかけてのドラマで、そこで父親の罪があばかれるという緊迫した構成をもっていたが、あれはシェイクスピアの『ハムレット』のアダプテーションである――気がついている人が少ないのだが。


あるいはドグマ映画何作目だったかの『キング・イズ・アライヴ』は、砂漠で迷ってしまったバスの乗客たちが、救助隊が車での暇つぶしに、シェイクスピアの『リア王』を演ずるという物語である。あるいはドグマ映画の中心的存在でもあったラース・フォン・トリアの『ドッグヴィル』とか『マンダレー』といったアメリカ三部作(いまのところ二部作だが)は、完全に、劇場の舞台空間を映画のなかにうつしかえたものだった。そこに演劇的緊迫感があるかどうかは、疑問だとしても。これほどまでに映画らしさの復権を目指したドグマ映画は、映画の演劇化を目指していたのである。


その意味で興味深いのは、昨年公開されて評判になった映画『キサラギ』である。あの映画をみて、私は最初、舞台の原作を映画にしたものだと思った。映画を観ながら、そこに舞台を重ね合わせていて、舞台ならこういう感じだろうかと、常に劇場を、舞台を意識していた。


ずっと顔をあかされなかった、アイドル歌手の如月の姿が、映画では最後に登場する。しかし、舞台だったら映写機は観客のほうを向いていて、客席の方角がスクリーンにみたらていて、登場人物全員、客席方向をみるわけだから、如月の姿かたちは、最後までわからないだろうが、まあ映画ではそれをみせて、観客にサービスをしているのかと考えていた。


しかし、私は間違っていた。戯曲が原作ではなく、そもそも原作が、ああした演劇的な脚本だったのだ。あの映画の物語を上演した劇場はなかった。あの映画そのものが劇場に、舞台と化したのである。逆に言うと、あの映画は、容易に舞台化できる原作である。最初から最後まで四人の登場人物が一つの部屋で、死んだアイドル歌手如月の死の原因を推理してゆくのだから、これは演劇そのものである。


映画の宣伝としては「密室劇」「ワンシチュエーション・サスペンス」とあるが、要するにそれって演劇だということでしょう。そして映画とは犬猿の仲ではないとしても、また相容れないとしても、それぞれ別物として語られることの多い二つのジャンルが、融合するときに最高度の虚構空間が成立することの証明がここにある。それまた往々にして映画的な演劇が魅力に乏しいか、ただのお安いスペクタクルに脱してしまうのに対して、演劇的な映画は、演劇以上に面白くなることがある。


そしてもうひとつ――演劇以上に演劇的になる映画の一例が、これであるにもかかわらず、演劇という言葉がタブーであるごとく語られるいことがない。映画ファンは、演劇的様相については無視し、演劇ファンは、映画が演劇的になることを知ろうともしない。映画と演劇のハイブリッドは、いまだ認知されざる芸術空間である。


付記:
映画『キサラギ』では、最後に死んだ如月本人の記録映像が登場し、彼女がどんな風貌なのかがわかるしかけになっている。それまでは意図的に顔をみせない演出なので、観客の側の想像力はふくらむばかりで、実際に映像をみると、最初、自分の想像力のなかの顔とのギャップに、のけぞってしまう。「なんと、まあ……」と思っても、映画のなかではB級どころかD級アイドルとか、遅れてきた清純派と語られるているので、まあ、それならこんな顔なのだろうと、だんだん納得してしまう。


ただ、それにしても、こんな田舎っぽくて、しろうっとぽい、あかぬけない、ブレークしなかったアイドル歌手の役をやらされている女優(あるいは素人か)も、たいへんなものだ。そんなに美しくなくても、美人だといわれる役をするのは、よいかもしれないが、観客を唖然とさせるようなあかぬけない、どんくさい女の子として、こてこてのアイドルの歌と踊りを披露する役というのは、けっこうつらいものがあるかもしれない。高校の文化祭かなにかで、女子高生による、アイドルの歌とか踊りの真似を、デフォルメしたかたちでするパフォーマンスをみているようで、歌も踊りもうまいけれど、顔がちょっとというような、そんな感想をもったのだけれど……。


え、如月ミキとして最後に歌って踊るのは、酒井香奈子、プロの声優。声優アイドル? え、そうなの。いや、これまで書いたことをファンが読んだら、どつかれる……


はい、すみません。いやあ、素人はとても思えなかった歌と踊りで、そもそもその乗りからして、やはり、プロはすごい。素人とはちがいますよね。ほんと、これから応援させてもらいます。しっかり酒井香奈子情報もインプットしておきます。え、それにしても、そんな え、O型の蠍座、誕生日は、え、私と一日違い!!!!((酒井香奈子)(私)(木村拓哉)の順。)