晩年日記


本日は、ほんとうの日記を書いてみました。
とはいえ午後9時から寝るまでのことなので
事件はまったくありません。


テレビで「四姉妹探偵団」をみていたら、「あ、前田亜季が出ている」ということで、釘付けになった。まあ、ファンだから。昨年、『相棒』にも1回でていたから、テレビ朝日に気に入られているのだろうか。同じような役どころが気になる。昨年『風林火山』にも出いていたが、ああいう役もいいのにと思っているのだが。べつに最初から観ようと思ったわけではない。遅い夕食なのだ。それまでは寝ていた。


朝まで翻訳のあとがきを書いていた。なかなか書けなくて、書けないので、現実逃避して、索引のほうをつくっていた。項目は全部取り出して、あとは原書のページ番号をゲラのページ番号に直すだけとなったが、そんなことをしている場合ではなく、あとがきを督促されることになった。なんとか今日の朝までに仕上げて、ファイルで送ったのだが、出来はよくない。あまり緊張感もなく、なにかあっけなく終わったというのは、出来がよくない証拠。いつでも何か書いた後は、締め切りに追われているということもあるが、疲労困憊して、うんざりして、もう二度と、何も書くかと、自己嫌悪にとらわれるのだが、今回は、自己嫌悪もないかわりに喜びもない。でも、結局疲れていたみたいで、昼間は寝ていた。


1月25日の夕刊をみてみる。
金曜日は映画の宣伝が入る。どれも知っている映画なのだが、マーク・フォスターの映画があった。『チョコレート』『ネバーランド』の監督とあるが、子供物なのだからそうなるのだろうか。マーク・フォスターの『ステイ』(ハムレット物だが)と『主人公は……』は言及されていないのが惜しい。この映画、評判の映画のようだが、よく知らない。2月になったら近くのシネコンで上演するようだ。


同じ夕刊に「青木保「風雅月誌」」をみる。文化庁長官(人類学者)の青木保の1月12日の記述に、フレディー・コールの演奏会を聞いて、「……瑞々しい表現で魅了する。アドルノやサイードの主張とは若干ずれるが、見事な「晩年のスタイル」だと思う。」とある。どういのを晩年のスタイルと考えているのか、よくわからないが、歳をとっても「瑞々しさ」を失わない、若さの持続を言っているようだが、次の大佛次郎鞍馬天狗に言及した日誌では、「大佛氏もまた見事な「晩年のスタイル」の文人だった」といい、それは「晩年の筆になる天狗に作者の老熟の風雅を感じる」からだという。その感想が適切なものかどうかはべつにして、「老熟と風雅」、円熟が晩年のスタイルにふさわしいというのだろう。なんという通俗的な。ヴァルガーという汚らしい英語がふさわしい。


アドルノやサイードがいった「晩年のスタイル」とは老熟とか円熟とか和解とはほど遠い、闘争と怒りと抵抗のスタイルであり、完成ではなくカタストロフを特徴とする。これは通俗的な理解とは違うし、政府に気に入られている人間には、受け入れられない考え方かもしれないが、そもそも「老熟」とか「円熟」とかは、文化とか芸術には全く関係のないイデオロギー的幻想だと考えている。アドルノもサイードも、文化の根幹にある円熟とは程遠い晩年のスタイルを提示したことで、わたしたちがイデオロギー的幻想と決別する契機をつくったのではないだろうか。


イードシェイクスピアの晩年の作を円熟した晩年の作品の典型とみて、自身が考える晩年のスタイルとは区別しているが、実は、シェイクスピアもまた、サイードの晩年のスタイルの典型ともいえる作品を残している。シェイクスピアのことを思いついたのは、私の専門だからではなく、同じ「風雅月誌」のすぐ隣、同じ頁に蜷川幸雄演出『リア王』の劇評があったからだ(劇評では「体内で加熱した感情がたぎる溶鉱炉のようだ」と平幹二郎の「圧倒的な迫力」が称賛されている)。シェイクスピアの『リア王』が提示する老人には、円熟も老熟も風雅も、そんなものはどこにもない。このリア王こそ、大げさなことをいえば、近代最初の晩年のスタイルの実例ではないかと思う。


残念ながら劇評の最後は、リアとコーディーリアのつかの間の再会に触れ、「まな娘と出会い直した父の幸福といたましさが混然となり、胸を締め付ける」で締めくくられ、リアのみならず晩年一般のつかのまの幸福と救いをクローズアップしているが、やはり、たとえ風雅でなくても、老熟と円熟と和解という晩年のイメージは捨てがたいのだろう。そんなものは幻想にすぎないと考えたのは、ほかならぬシェイクスピアであった。劇はこのあと晩年のリアのつかの間の幸福も打ち砕き、救いも和解もないカタストロフの風景を出現させて終わるのだから。『リア王』は晩年のスタイルの傑作である。


そればかりかシェイクスピアはやがて、『アテネのタイモン』で憤怒の晩年を提示する。そして一見、予定調和的な結末を迎える晩年の作品『テンペスト』も、和解はみかけだけで、何一つ解決されない冬の景色が広がっている。晩年のスタイルはシェイクスピアにもふさわしいものなのだ。


と興奮しているうちに、深夜番組の『未来教授サワムラ』を見そびれた。今日はもうセクハラはないでしょうね。深夜の番組だから、お色気、エロス、下ネタはありでもいいのだが、教授が嫌がる助手に性に関する発言をするのは、明らかにセクハラ。ふつうの大学だったら、そういう教授は首になる。どうもそれが犯罪とは思っていない番組つくりは問題だろう。