Gun Crazy 裏切りの挽歌


金曜日に映画を観ることが多いのは、金曜日に開いている時間が多いといかいうこともあるが、何よりも、見そびれていた映画が金曜日で終わるから、むりやりあわてて観にいくからだ。ただ今日は1日で映画館が一律1000円。映画が終わったあと駅のホームで時間をみたら映画が始まってから3時間たっていた。1000円で3時間楽しめたら、まあ安いか。


映画は『ジェシー・ジェームズの暗殺』。ただし原題は『臆病者のロバート・フォードによるジェシー・ジェームズの暗殺The Assassination of Jesse James by the Coward Robert Ford(2007)という、もう少し強烈なタイトルになっている。


今日が最終日なので、ネタバレもかまわないだろう。とはいえブラッド・ピット演ずるジェシー・ジェームズが殺される映画であると誰もが予想するし、予想通りのことが起こるので、ネタバレでもなんでも、ここで書いたからといって映画鑑賞の妨げにはならない*1


どのようにジェシー・ジェームズが暗殺されたかというと、偽名を使い正体を隠して暮らしているジェシーと、その家族。そこにジェシーの求めもあって、いっしょに暮らしているチャールズとロバートのフォード兄弟がいる。最後の瞬間。娘と外出しようとしていたジェシーは、銃をもっていると、怪しまれるからと、ガン・ベルトに二丁の拳銃を入れたまま、ソファーの上に置く。そしてソファーの反対側にの壁にかっている絵にほこりがついているからと、丸腰のまま、踏み台にのって、絵のほこりをとっている。そこを後ろからロバート・フォードが撃つ。フォード兄弟は、その足で郵便局へ行き電報を打つ。


しかし、この場面を映画のなかで観た人よりも、文章で読んだ人のほうが、よくわかるかと思うが、どうみてもジェシーはすきだらけ。ジェシーはあえて丸腰になって、ロバート・フォードに背を向けた。早く、俺を殺せといわんばかりに。これではまるで撃ってくれと頼んでいるようなものだ。そうかと、ここで納得できる。ジェシー暗殺の真相はなんであれ、この映画では、ジェシーは、自分を殺してくれと、ずっと頼んでいたのだというように解釈している、と。この映画を観終わったあと思うのは、ジェシーは、ロバート・フォードを使って、自分を殺させたのだろうということだ。


東京ウォーカーに載った素人の映画評を引用する。

心理メインだが見ごたえ十分
切れ者だが時として制御不能の暴力を振るう(そして自己嫌悪に陥る)病んだジェシーと憧れと勢いで一味に加わるもそんな彼を見る内に冷ややかな傲慢さを内に秘めていくボブ。主演二人を含め他の役者さんの演技もとても説得力ありました。

一緒にいるものを落ち着かなくさせるというジェシーがかもし出す緊張感、憧れだけから、侮蔑や哀れみ、愛情と憎悪がないまぜになっていくボブの心。どちらかと言うとボブ視点の方が、感情移入はし易かったですが、じわじわと相手を恐怖に陥れるジェシー演じるブラピの剣呑な雰囲気も臨場感たっぷりでした。

男性同志の仲間意識とか愛憎とかって、女には理解し難いですが、ちょっと憧れます。
以下略。

この人は、「冷ややかな傲慢さを内に秘めていくボブ」というように、描写はうまい。またケイシー・アフレックベン・アフレックの弟)扮するボブに対して感情移入しているようだが、ボブは、純情な青年がアウトローにあこがれてジェシー一味に入るのだが失望するという、そういうパターンだけではない。むしろ最終的にジェシーに利用され破滅する哀れな道化的人物。その空っぽなチンピラぶりを、ケイシー・アフレックは実に見事に演じていた(兄貴ベン・アフレックを越えたね)。


別のレヴュー


そして、そのジェシー・ジェームズを暗殺したロバート・フォード(通称ボブ)のケイシー・アフレックが、神経質でありながら、大胆不敵な男を独特の雰囲気で演じています。憧れていたジェシー・ジェームズの仲間になるも「いつか殺られる」という脅威が、ボブに暗殺という選択をさせたように思いました。

映画は、暗殺後のボブの末路も描いており、160分という長尺も緊迫して見れました。

この二つのレヴューに共通しているのは、ブラッド・ピット扮するジェシーが、瞬間湯沸かし器みたいで、下手に怒らせたりしたら、その場で殺されてしまうのではないかと、周囲が、常に、緊張しておびえていると考えていること。「一緒にいるものを落ち着かなくさせるというジェシーがかもし出す緊張感」とか、「じわじわと相手を恐怖に陥れるジェシー演じるブラピの剣呑な雰囲気も臨場感たっぷりでした。」とか「憧れていたジェシー・ジェームズの仲間になるも「いつか殺られる」という脅威が、ボブに暗殺という選択をさせたように思いました。」とか。


たしかに、そういうところはある。また、それはこういうギャング映画でよくある設定である。しかし、この発想とは、ほんとうなら縁を切るべきなのだ。むしろ、ジェシーのほうが、こいつら、どうして俺のことを早く殺さないのだと、焦燥感にとらわれているようにもみえる。そのメランコリックな風景が圧倒的に迫ってくる。ジェシーは、突然切れることもあるが、それがたたって、仲間内の団欒でも、本人はじゅうぶんに和んでいるのに、周りは緊張しているという温度差が生まれる。それは自業自得の面もあるが、しかし、ポイントは、ジェシーは仲間を殺そうとしていないこと、ジェシーは仲間が自分を殺すのを望んでいることである。


たとえば、ボブの兄チャーリーと旅をするジェシーは、裏切り者を後ろから撃ったことを告白する。しかしそれはジェシーの話にすぎない。そしてチャーリーのことを疑っているジェシーは、隠し事をせずに本当のことを言えという。しかしチャーリーがあくまでもしらをきると、あっさりと信用してしまう。しかしそれは、俺を後ろから撃って早く殺せという暗黙のメッセージなのだ。しかしチャーリーのほうは、ジェシーに殺されるかもしれないという恐怖が先にたって、なにもできない。


チャーリーが、忠実すぎることに愛想をつかしたジェシーは、今度は弟のボブを引き入れる。そしてボブに対しても、うかうかしていると殺すぞと脅しを入れておき、お前をいつも監視している、信用していないことを明確にして、自分を殺すようにじわじわと追い詰めていくのである。ボブに隠し事があるのを、ジェシーは見抜いていもいいのに、放置しておく。しかし信用しているわけではない。


そして最後の殺害場面に至る。ジェシーがボブに丸腰で背を向けたのは、家族のようにボブのことを信頼しているからではない。ボブのことは信用していない。ボブが裏切り者であることを、見抜いていたが、それを態度に示さなかったふしがある。ボブに自分を殺させるために。そして自分ではまったく信用していない男に、丸腰で背を向けたのである。今殺せ。そして今殺さなければ、つぎにはお前を殺すぞ、裏切り者、と。


その前の段階で、一味とは離れて(一味を裏切って)食料品店で働くボブのもとへ、ある日、ジェシーが、チャーリーとともにやってくる。ジェシーは、ボブに「おまえは選ばれたYou were chosen.」と呼びかける。ボブは、「選ばれたってChosen?」ともう一度念を押す。選ばれたとは、へんな言い方がだが、映画は、自分の殺害者にジェシーがボブを選んだことを暗示している。ただ頭のいい字幕作成者は、Chosen?と鸚鵡返しに念をおすボブの台詞を「どんな仕事だ?」とかいうように訳している。工夫したつもりなのだろう−−字幕作成者は常に工夫するのが商売なのだが。むしろ直訳しておいたほうが、映画のテーマが明確に伝わっていた。


あるいはジェシーは、暗殺の前に、ボブのもっている拳銃がぼろいので、新品を買って与えるのである。信頼し、親愛の情をそそいでいるともとれるが、また、暗殺を失敗なく実行してくれるよう、確かな拳銃を渡したともとれる。


アウトロージェシーに憧れたボブは、ある意味で、ジェシーのストーカーでもあり、その同一化の欲望は、同性愛的欲望とつながっているのだろう。『太陽がいっぱい』とか『リプリー』(ともに原作は同じだが)といった映画などを思い浮かべることもできる。そのふたつの映画に明確に観られたゲイ的欲望は、『ジェシー・ジェームズ……』には、明示されても、さらに追及されたりダメ押しされることはない。そこが残念だが。


ジェシーと、ジェシーにあこがれるボブは、鏡像のように相対しているというのが、同一化の欲望から見えてくる構図である。1)かたやアウトローの義賊ジェシー、かたやそれにあこがれる変わり者のボブ。だがこの最初の構図は映画が進むに連れて崩れ始める。ジェシーは英雄的義賊どころか、心も体も病んだ残忍な殺人鬼であり、仲間の裏切りにおびえ、仲間を後ろから撃ったりする臆病者であると、わかってくる。ここで最初の構図は反転する。2)臆病者の殺人機のジェシーと、そのジェシーに幻滅し、そのジェシーを殺したら英雄になれるであろうボブ。臆病者の殺人鬼(ジェシー)と、殺人鬼を殺した正義の味方の英雄(ボブ)。しかしこの構図も、最後にもう一度反転する。


心も体も病んだジェシーは、自殺を考え、死に場所を求め、自分の処刑人を探す旅にでる。ボブの兄チャーリーは処刑人になる度胸はなかった。そこでジェシーに幻滅し、裏切りを働いたらしいボブをジェシーは処刑人に選ぶ。そして運命の瞬間。殺害の瞬間、ボブは、自分が英雄になったと思ったかもしれない。しかし鏡の両面のごとく相対していたふたりのうち、英雄性は、殺されたジェシーのほうに確実に移行し、ボブには卑劣な裏切り者の烙印が押される。生きているうちは問題のある殺人鬼だったジェシーは、こうして殺されることによってその英雄性を不滅のものにし、いっぽう英雄になるはずだったボブは、永遠に汚辱のなかに沈むのである。


ジェシー暗殺後、一時的に英雄としてもちあげられたボブは、舞台でみずからの行為を、兄をジェシーに見立てて演じてみせる。これによってボブは一躍、国中の人気者になったらしいのだが、兄がへたくそな演技でジェシーを道化的に演じているうちはよかったが、ジェシーの演技に凄みが増し、威圧的で英雄的なジェシー像が兄によって舞台に生ずると、ボブが、結局、丸腰のジェシーを後ろから射殺した、卑劣な裏切り者にみえてくる。早晩、観客席から、ボブに、「臆病者」の野次の声が飛ぶ。ボブは、裏切り者、臆病者として汚名のなかで後半生を送る。


臆病者のロバート・フォードによるジェシー・ジェイムズの暗殺


映像では、周囲がぼんやりして、中心しかよく見えない場面が頻出する。これは断片的に浮かんでくる過去の一場面ともいうようにもとれる。あるいは覗きからくりの話が終わりのほうに出てくるのだが、これはすべてが、覗き穴のレンズを通してみる、過去の神話化され伝説化された映像という含意があるのかもしれない。そしてさらに、それは、この映画全体をも暗示しているところがあって、ジェシー・ジェイムズの暗殺場面だけは鮮明なのだが、あとはぼやけている。真実か虚構かも疑わしくなっている。そんななかで殺害場面だけが、真実なのである。何度も繰り返すが、丸腰のジェシーを後ろから撃っている。英雄的な行為ではない、臆病者の卑劣漢のすることだ。そのことに気づかぬまま、事件直後、全国の劇場で、これを再現したボブ。そこに潤色はなかった。そこだけが真実であった。あとは霞がかかっている。真相は、いまにも、あるいはすでにいつも消えている。ということだろう。


そう、この映画では、窓ガラスを通して外を見る場面がよくでてくる。昔の質の悪い窓ガラスなので、厚みが均一ではなく、ガラスを通してみる映像にはゆがみが生ずる。まさにそのように、この映画は、過去の伝説と記録を、鮮明であったり、ぼやけたりするところを混在させるのである。この映画は、真相をめぐり、新たな伝説を書き加えるのではなく、伝説を伝説として立ち上げたのである。。


パンフレットには上岡伸雄氏も一文を寄せていて、それは原作『ジェシー・ジェイムズの暗殺』の翻訳者であるかららしい。翻訳は集英社文庫から出ている。買ってみようかな。あれ上岡伸雄監訳。誰が訳してるんかい。

追記

ケイシー・アフレックは、すでに触れたように、その演技は、兄貴よりも上手い。この映画は、兄を凌ぐ弟の讃歌かもしれないが。


メアリー・ルイーズ・パーカーに久しぶりに出会った。エイズにかかって死んでゆくレズビアンの女性を演じた『ボーズ・オン・ザ・サイド』の印象からいまも立ち直っていない私だが、テレビなどでコンスタントに活動しているようだ。テレビ版『エンジェルス・イン・アメリカ』にも出演しているらしいが、見たことはない。


映画の最後のほうに、ボブの恋人となった歌手・ストリッパーの女性、どこかでみたことがあるのだが、思い出せないまま、エンド・クレジットをみていたら、Zooey Deschanel。あ、そうか、『銀河ヒッチハイク・ガイド』に出ていた。ちなみにボブの兄チャーリー役のサム・ロックウェルも『銀河ヒッチハイク・ガイド』に出ていたことを発見。というか、まったく気づかなかった。あの映画での銀河の大統領と、このチャーリーが同一人物だったとは。それにしても『銀河ヒッチハイク』に出演している二人が、この映画に出ていたとは。ということで、ねずみをめぐって1月2日の日記書くことにしよう。

*1:最終日のはずが、近くのシネコンでは、まだ一週間は上映するようだ。ただし夜の9時以降の枠だけれども